クリスチャンが怠惰を謙遜を装う事でコーティングするのはよろしくない。

今日は。rieruです。

今日はクリスチャンが過剰に自らを卑下する危険について語りたい。聖書に下記のような記述がある。

「これらのことは、ひとりよがりの礼拝とわざとらしい謙そんと、からだの苦行とをともなうので、知恵のあるしわざらしく見えるが、実は、ほしいままな肉欲を防ぐのに、なんの役にも立つものではない。」
‭‭コロサイ人への手紙‬ ‭2:23‬ ‭口語訳‬‬
https://bible.com/bible/1820/col.2.23.口語訳

上記の箇所の「わざとらしい謙そん」というのは日本人のクリスチャンに取って特に注意が必要な部分である。日本には「自らを低くする事」を美徳とする文化できる背景がある。これが勢いクリスチャンの中にも影響を及ぼす事がある。

個人的に「違うな」と思うのは「私には力がない」という事が「何かをしない事」への言い訳に使われる事である。本来できる能力が神に与えられたにも関わらず怠惰になってしない事を「私は力のないものなので」という謙遜を装う事でコーティングして言い訳するのは「わざとらしい謙そん」である。少なくともrieruにはそう見える。

クリスチャンの神の前における責任は「神によって与えられた能力を全て使い切って神に仕える事」である。それは過不足なく実行する事が必要であり、与えられたものを適切に用いない事も不適切である。勿論神に与えられた能力以上の事をしようとする事も不適切なのは言うまでもない。しかし、過剰に自らを卑下してそれを隠れ蓑にできる事しない事は同様に責められるべき事である。

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