神の愛が心に注がれる。

「そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。 わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。 正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。 しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」
‭‭ローマ人への手紙‬ ‭5:5-8‬ ‭口語訳‬‬
http://bible.com/1820/rom.5.5-8.口語訳

聖書はクリスチャンの心に神の愛が注がれている。と示している。抽象的な話だが、クリスチャンはそれがよく分かる。分かるというのは理屈とし分かるというわけではない。感覚的に分かるのだ。自分の心に神の言葉が存在し、神の愛によって心動かされて行動する。その事が現実にあるからだ。

この神の愛はキリストがクリスチャンのために死んだ事によって現されると上記の聖書の箇所は教える。神の愛がキリストの行動によって現されるというのは理屈としてはちょっと変だが、rieruは次のように解釈してしている。

キリストは自分のいのちという犠牲を払って罪人を愛する愛を現した。その愛の大きさが罪人のために自分の子であるキリストを十字架にかけて殺す神の愛の大きさを具体的に私たちに教えている。

「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。」
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭1:18‬ ‭口語訳‬‬
http://bible.com/1820/jhn.1.18.口語訳

上記の通りキリストは目に見えない神の存在を具体的な行動をもって世に知らしめるという役割を持ってこの世を歩んだ。十字架で示されたキリストの愛とは神の愛をこの世でかたちをもって現した行為なのである。

と理屈で説明するのは重要な話だがもっと大事なのはクリスチャンの心の中にはイエスキリストの十字架の愛に触れる時に神の愛を感じるという実体がある事だ。クリスチャンは十字架を仰ぐ見る時に本当に心が反応する。十字架の故にキリストと神に感謝をする。そこに理屈はない。常にそれは実体のあるこころの反応だ。それを理屈で説明するとキリストの十字架の愛によって神の愛の大きさが分かるということになる。そんな理屈は自覚してしなくても十字架によって神の愛を感じて感謝する。それがクリスチャンの日々の生活を支えている。

時に日常のことや弱さによりその事が疎かになるなまたそこに戻って生活を立て直す。それがクリスチャンとしての私の日常である。