実行困難な神の命令に対する態度にクリスチャンの真価が問われる。

今日は。rieruです。

聖書のクリスチャンに対する命令は時に「これは無理」と思うようなものもある。それは事実だし、rieruとしてもそれに悩む事はある。完璧にできているわけでもない。しかし、この実行する事の困難な命令に対してどう向き合うのかという事にクリスチャン真価が問われる。まず聖書のクリスチャンに対する命令は「神の命令」であり、クリスチャンは絶対に蔑ろにしてはいけない。「時代に合わない」「文化的差異を考慮する」などの言い訳を持ち出してその命令を無かった事にするのは正しくない。

例え、それを今実行できなくてもその事に心を痛めて少しでも改善する不断の努力をし続けるべきである。rieruの実感としてはその努力をし続ける時に神の恵みによる赦しというものがある。勿論、神の命令を実行できない事に心を責められる事から逃れられる事はない。しかし、その中にあっても神の守りと慰めがある。

人の限界があってできない事はできない。しかし、それで開き直って何も悩まないというのは髪の義を蔑ろにしている。逆に相手がその弱さを自覚して悩んでいるのに「できない事」だけを取り上げて相手を裁くような事もクリスチャンとして相応しくない。それならば、相手の弱さに同情して、助けるべきである。お互いに、できなくてもそこに悩みながら前を向いて歩み、互いに励まし合って生きる。それが神の命令に対するクリスチャンの態度である。

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