誤解の多いキリストのくびき。

今晩は。rieruです。

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」
‭‭マタイによる福音書‬ ‭11:28‬ ‭口語訳‬‬
https://bible.com/bible/1820/mat.11.28.口語訳

このキリストの言葉はクリスチャンでも誤解している人がいるように思う。この言葉だけを切り取るとキリストの元に来ればただ何もしなくても休む事ができるという誤解を生む。しかし、この言葉の後には下記のような言葉が続く。

「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。」
‭‭マタイによる福音書‬ ‭11:29-30‬ ‭口語訳‬‬
https://bible.com/bible/1820/mat.11.29-30.口語訳

つまり、キリストの元に来た時には「キリストのくびきを負う」わかりやすく言うと、キリストのための仕事があるという事だ。決してそれはただ怠惰に休み続けられるというわけではない。しかしながら、キリストのくびきは「負いやすい。」だから、結果的に負担がなく、それを負う人に「安息」がある。

ただし、これは世の中一般から見て「負いやすい」とは言い難いものである。例えば、キリストのくびきを負うものには、悪魔との戦いが発生したり、自らの罪に悩むという現実がある。それは決して一般的な人が負いやすいとは言い難い。しかし、クリスチャンは「キリストが自らのために命を捨てるほど愛して下さった」という実感と「それによって自らが永遠の裁きから救われた」という強い実感がある。その事への感謝の気持ちのゆえに「キリストに対して少しでも役に立ちたい」という強い気持ちがある。そして、それを実行に移す時にする事のできない喜びがある。それ故にキリストのくびきは負いやすいのである。

この事を間違えてクリスチャンでない人に最初に紹介した言葉を伝えると大きな誤解を生む。それは、クリスチャンがしてはいけない事である。

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