クリスチャンにとっての「誓い」

今晩は。rieruです。

クリスチャンでない方でも時々「神に誓って〇〇」というフレーズを聞く事があるのではないだろうか。この場合、その事は絶対に変える事はないという意味である。聖書の中で「誓い」というのは特別な事である。例えば、下記の箇所に「誓い」が出てくるが、これは聖書の語る救いについて、神が完全で不変なものである事の保証を意味している。

「そこで、神は、約束のものを受け継ぐ人々に、ご計画の不変であることを、いっそうはっきり示そうと思われ、誓いによって保証されたのである。」
‭‭ヘブル人への手紙‬ ‭6‬:‭17‬ 口語訳‬
https://bible.com/bible/1820/heb.6.17.口語訳

この「誓い」人の「誓い」とは根本的に違う。人の誓いというのは時に軽いものであり、時に舌の根も乾かぬうちに違う事をやっているという事が起こる。しかし、この「神による誓い」永遠に変わる事のない絶対のものである。その事を踏まえる時、クリスチャンは「誓う」という事に慎重でなくてはいけない。「誓う」という事はその内容が絶対普遍である必要があるからだ。キリストは「誓い」について下記のように語っている。

「また昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。」
‭‭マタイによる福音書‬ ‭5‬:‭33‬-‭34‬ 口語訳‬
https://bible.com/bible/1820/mat.5.34.口語訳

この言葉の後には下記の言葉が続く。

「また、自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。」
‭‭マタイによる福音書‬ ‭5‬:‭36‬ 口語訳‬
https://bible.com/bible/1820/mat.5.36.口語訳

人は自分の頭の毛の色さえコントロールできない無力な存在なのである。その人に取って「絶対普遍の事柄」というのは基本的にない。クリスチャンにはそういう謙虚な気持ちを持つべきなのである。

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