日時生活こそ信仰生活の中心である。
聖書を読む時間や教会に集う時間はクリスチャンの信仰生活において大事な時間である。しかし、もっとも重要な時間は日時生活を送っている時間である。日時生活とは家庭、職場、学校その他社会生活のおける全ての時間である。
その時間において聖書の教えをいかに実践するかという事が信仰生活の最も大事な点である。教会にいる時だけクリスチャンらしくあっても日時生活が聖書の教えとかけ離れていたらその信仰生活は悲惨としか言いようがない。また形だけ聖書を読んでいたとしても、その教えを理解し日常生活に活かされなければ意味はない。
では日常生活を聖書の教えに従って歩むとはどういうことか。一言で言うとそれは他人を自分と同じように愛する生活だ。聖書は人との関係において教えている事はこの一つだけである。後の具体的な教えは他人への愛をいかに示すかという表現方法でしかない。聖書の教えに従って歩んでいるかという検証は他人をどこまで愛せているかという検証と同義である。
そう考えるとrieruも胸が苦しくなる。決して自分の日時生活が他人への愛で溢れているわけではないからだ。職場や社会で自分に嫌なことをしてくる相手に配慮する事は本当に難しい。家庭では少しだけ愛を示せているかもしれないが、親しいが故に無遠慮な行いをする事もある。
他人を愛するというシンプルな教えであるが実践は難しい。それを少しでも実践するために救い主なるイエス様とよく交わる必要が生じる。聖書を通してイエス様の姿をよく学び、そこから力をもらう以外に神の教えを実践する力は得られない。教会に集って聖書の話を聞いたり、礼拝をする事もイエス様との交わりの一つの形態である。
少しでもこの時間を多く取り、日時生活において他人を愛するという聖書の教えを実践できるように努力する。その繰り返しこそ信仰生活そのものなのである。