クリスチャンが目に見えるものを偶像とする愚かさ

こんにちは。rieruです。

聖書は「大祭司であるキリスト」について以下のように語っている。

そこで、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たちよ。あなたがたは、わたしたちが告白する信仰の使者また大祭司なるイエスを、思いみるべきである。

‭‭ヘブル人への手紙‬ ‭3‬:‭1‬ 口語訳‬,bible.comより引用,2024年9月22日最終閲覧

これは、当時のクリスチャンの間に「キリストよりも大切なもの」が存在し、それを拝むということが行われていたことが背景にある。クリスチャンがキリスト以外のものを拝むということはあり得ない話だが、現実にそれが起こっていた。それは、人が「目に見えるもの」に頼りやすいとうい性質による。クリスチャンは目に見えない神を信じ、目に見えないキリストを拝むものであるはず、目に見えるものにこころを奪われる。それはいつの時代にも大きな誘惑である。

そこでこの手紙に筆者はは強い言葉で「あなたは誰によって救われたのですか」ということをと問いかけている。その答えは「あなたのために血を流して、あなたの罪の償いをした(言い換えればあなたの大祭司である)キリストです」ということが筆者の言いたいことである。神秘的な雰囲気のする建物や十字架の模型は救い主なるキリストの代わりにはならない。聖書の知識や、敬虔なクリスチャンも同様である。しかし、人間はこれらの目に見えるものが偶像化するのである。キリスト以外の偶像を拝むなら、クリスチャンは神から厳しい叱責を受ける。そのことの警告がこの書簡には満ちている。

ブログ村のランキングに参加参加しました。本記事を評価頂けるようであれば、本ブログを応援する意味も込めて下記のバナーをクリックして頂けると幸いです。 にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

本ブログはコメント欄を設けておりません。コメントがある場合は、お手数ですが下記Xのポストのリプでお願いします。