人の心を永遠に満足させるもの
‘イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。 しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。 ‘
ヨハネによる福音書 4:13-14
https://www.bible.com/ja/bible/1820/JHN.4.13-14
聖書はこのよう語っている。「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。」の意味するところは「人が心の満足を求めて色々なことをしてもその結果本当の意味で心が満たされることはない」状態のことの指している。このことは多くの人に共通する経験ではないだろうか。何か本当に嬉しい出来事があっても1日もすれば心に満たされることのない思いが湧いてくる。そしてそれを満たすために別の事をする。それは多くの人の日常である。
人生そんなものと言ってしまえばそれまでだが、聖書はその後に「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」と続く。この「わたし」とはキリストであり、「わたしが与える水を飲む」はキリストを信じることである。一言で言えば「キリストを信じれば心に永遠に心が満たされる。」それが聖書がこの箇所で言わんとしている事である。
何とも飛躍した話だと思われるかもしれない。しかし、聖書の語る事を丁寧に紐解いていくとそうではない。そもそも人が心に渇きを覚えるようになったのは「自分を創った方である神との交わりの断絶」による。人が創造主なる神を離れ、神を無視して好き勝手なことをするようになった。創造主なる神を無視して生きる事は神に対する重罪で在り、その結果人は神との交わりが断絶し、心に渇きを覚えるようになった。それを再び満たすためには神の元に帰る必要がある。
しかし、神の元に帰るためには「罪の償い」が必要である。神は罪あるままで人を受け入れる事ができない。その償いのためには「罪のない者のいのち」が代わりに失われるということが必要になる。その償いのためにキリストは十字架でいのちを落とした。ただいのちを落としただけでなく、すべての人の罪を背負って、人が受けるべき罪の罰をキリストが受けた。神はこのキリストを自分の救い主して信じるものを「義と認めて」下さる。その結果人は想像主なる神との交わりを回復し心に永遠の満足を得るようになる。これが聖書の語る福音である。
正直、今この文章を読んだだけでこれが真実であると断言できる人は多くはないだろう。しかし、もしこの福音に興味を持たれる方がいたら是非聖書を手に取って読んでもらいたい。またこのブログで紹介しているYouTubeの動画を視聴してほしい。そこに人の心を真の意味で満足させるものがあるのだから。
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