新しく生まれる事を知る方法。

今晩は。rieruです。

今日は人が新しく生まれる事について。新しく生まれるとは聖書の下記の場所に言及されている。

イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。

ヨハネによる福音書‬ ‭3:5‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/jhn.3.5.口語訳

このところで言う「神の国にはいる」とは救われる事である。このように書くと「人が救われるためにはキリストを信じる事が条件では?」という疑問があり得る。しかし、この箇所の後に下記の記述がある。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭3:16‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/jhn.3.16.口語訳

ここで言う永遠の命を得るとは救われる事である。このヨハネの福音書3章の16節はニコデモという人がキリストに対して「新しく生まれることがありうるのか?」という問いに対する返答を要約したものである。だから、水と御霊によって生まれる事の条件が信仰であると分かる。信仰と新生は、人の責任は信じることだが、信じると神の側で水と御霊による新生という変化が与えるという関係にある。

だから、信仰と新生は一つである。新生なき信仰はあり得ない。新生は信仰の保証であり、新生があると分からない人が「信じている」といくら主張しようとも、その人に信仰がある(救われている)と断定する事はできない。では新生はどのように判断するのか。聖書は下記のように教えている。

ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。 イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。 肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。 あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。

‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭3:4-8‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/jhn.3.4-8.口語訳

キリストの新しく生まれるという救いの条件提示に対してニコデモは「肉体そのものが生まれ変わる」と理解した。しかし、キリストは霊の生まれ変わりについて、「風そのものを視覚的に見ることができないように、霊の生まれ変わりも肉体の変化によって捉えることはできない」と言っている。しかし、「風の存在をその奏でる音によって理解できるように、霊という人の内側の変化は外に現れる言動という音によって理解できる」と語っている。

霊の生まれ変わりを把握するためには、霊の奏でる音によって判定しなくてはいけない。ではその霊の奏でる音は一体どう言うものか。

しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである。

‭‭ローマ人への手紙‬ ‭7:6‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/rom.7.6.口語訳

根本的な新しく生まれた霊の機能は「神に仕える」事である。霊によって神に仕えるならばその人には霊の新生がある。これが原則的な見分け方である。ただこれだけだと、「神に仕えるとはなんぞや?」という疑問が残る。聖書は上記の言葉に続いて霊によって神に仕える事の実態を下記のように記している。少し長く、関連が分かりにくいが大事なところなので少しお付き合い頂きたい。

「それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。 しかるに、罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起させた。すなわち、律法がなかったら、罪は死んでいるのである。 わたしはかつては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、 わたしは死んだ。そして、いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった。 なぜなら、罪は戒めによって機会を捕え、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺したからである。 このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。 では、善なるものが、わたしにとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ、罪の罪たることが現れるための、罪のしわざである。すなわち、罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである。 わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。 わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。 もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。 そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。 すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。 もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。 すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、 わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。 わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。 わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。」‭‭

‭‭ローマ人への手紙‬ ‭7:7-25‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/rom.7.7-25.口語訳

ここで聖書は、救われて霊によって神に仕えるものも律法によって罪が示される事があり、それに苦しむ事がある事があること語っている。(罪の行う理由は霊の新生があっても人がこの地上にいる間、罪の性質が残るからである。しかし、それでも神の律法(言い換えると神の意思)を喜び、「心では神に仕える。」それが「霊によって神に仕える事である」と聖書は教えている。これはクリスチャンにとって大きな声で悲しみではあるがそれが実態だと聖書は教えている。新しく生まれた霊によって神に仕えると言っても簡単ではなく時にそれは失敗するものである。その事を抜きに神に仕えるという綺麗な部分だけを書くと、クリスチャンは本来あり得ないはずの罪に苦しむだけに終わってしまう。だから聖書はクリスチャンの実態についても証言する。つまり、神に仕えるというのは自分の罪に苦しみながら(罪の苦しみは救われる前より大きい。なぜなら神の前における罪の重さをクリスチャンになる前より強く感じるから。)それでも心で喜んで神の律法を喜んでいる状態の事を言う。

ところで、新生があっても悪を行うとなるとと霊の存在の確認は難しくなると思われるかもしれない。しかし、そこは見分ける方法はある。基本的肉に由来する悪があるか否かは救いには関係はない。純粋に神の律法を喜び、善をしたいという思いがあるならば、霊の存在は確かだ。霊があるならば、肉との戦いがある。そこにに大きな葛藤がある。普通の人は悩まないような小さな悪を自分の中で許す事ができない。まず、そこが原点である。また、霊があるゆえに、神の律法を喜ぶゆえに出てくる行いも必ずある。ここでは触れられていないが、パウロというクリスチャンが霊のゆえに神に仕えた事は沢山聖書に出てくる。

盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう。

マタイによる福音書‬ ‭23:26‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/mat.23.26.口語訳

内側が変われば外に現れる。それが聖書の教えるところだ。霊が存在するゆえに、神の律法を喜ぶゆえに出てくる行いが、確実に存在する。留意すべきは肉によって悪を行なっていても、霊による行いが存在するならば、霊の存在は揺るがない。そこに神の律法を喜ぶ心のゆえに現れる行いがあること。それが霊の判断基準である。