死の恐怖への処方箋
今晩は。rieruです。
昨日娘が夜ベッドに入ってから「なんか怖い」と訴えてきた。よくよく聞けばテレビの怖いニュース(刑務所から誰か逃走したというニュースらしい。いつのニュースかは不明でおそらくだいぶ前の話。)の映像が頭から離れないらしい。小学生からすれば脱走犯が突然自分の目の前に現れて危害を加えるかもしれないという事を想像すれば怖くなるのはある種、当たり前だ。また、それがどれだけ現実的なのかという点が想像できないのも仕方ない。大人は、日本においては貰い事故する確率と同じようなものだから、逃走犯のニュースを見てもあまり危機感を感じない。しかし、子供にとってはそうした処理が難しいので悩む子は悩む。
rieruはこうした娘の様子を見ながら、二つの事をアドバイスした。一つ目は「子供の脳は敏感だから怖いニュースを必要以上に反応して怖くなるからそこから出来るだけ離れる事」もう一つは「ニュースに触れない事はその場しのぎだから、本当の安心を手に入れるために聖書の語る救いを手にするために努力すること」である。
rieruも昔同じような事を考えていた。近くの家で火事が起きた時心底怖かった。自分の家が燃えたらどうしよう。そんな恐怖が心を支配していた。それは究極の所、死への恐怖でありそれは根本的には信仰を持つ事でしか解決しなかった。勿論いつも死の恐怖が心を襲っていたわけではなく、人生の経験を増やすに連れて、自分が死に直面する確率は低い事を悟ると恐怖の度合いは低くなった。
しかし、結局死の恐怖から完全に解放されるためには信仰による救いの確信が必要だった。娘にもこの確信を分けてあげたいが、それはすぐには難しい。なぜなら聖書の語る救いの知識を与えても、自分自信が聖書と向き合って心で受け入れなければ本当の安心はないからだ。「怖いならイエス様を信じれば良い」とだけ言った所で真の安心はない。本人が自ら進んで聖書を手に取り、それを読み到達した確信でなければ死の恐怖へは無力である。だから、娘には聖書と向き合う時間を作って自分で信仰に至る努力をするよう勧めた。
信仰とは死の恐怖に対する本当の意味での処方箋なのである。