他人の罪を責める前になすべき事がある。
おはようございます。rieruです。
朝から暗い話で申し訳ないが、ネット社会になって犯罪者に対する厳しい声がリアルタイムで飛び交うようになった。罪を犯した者へ厳しい声が上がるのはある種当たり前の話だが、ネット時代にはそれが可視化されそれが増幅した。基本的に人は罪に対する嫌悪感がある。前科者と仲良くすることに抵抗感がある。しかし、イエス・キリストはそれとは真逆の事をする。
「パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと食事を共にしておられるのを見て、弟子たちに言った、「なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか」。 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。」
マルコによる福音書 2:16-17 口語訳
https://www.bible.com/1820/mrk.2.16-17.口語訳
イエス・キリストは当時の罪人と食事を共にした。それだけでなく「罪人を招くため」にこの世に来たとも言った。(取税人が罪人と同列に語られているのは当時の取税人は規定以上の税を取り立てそれをポケットに入れる罪人の代名詞だった)罪人の所に行き、救いの手を差し伸べる所にイエス・キリストの素晴らしさがある。
ところで、この話はイエス・キリストが慈悲深いという美談ではない。実は「キリストの招き」が必要な罪人は当時の取税人や現代にあってネットで袋叩きに合う犯罪者だけではない。キリストの時代「なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか」とキリストを批判したパリサイ人やネットで罵詈雑言を吐く人も含まれる。神の前には全ての人が罪人だからだ。(全ての人が罪人というのは一般的な感覚ではないが、それは神の罪の基準で罪を考えないからである。神の罪の基準についてはこちらを参照されたい。)
だから、全ての人はキリストの招きが必要である。キリストの招きとは罪の解決であり、具体に十字架による罪の贖いである。キリストは全ての人の罪を背負って十字架でその裁きを代わりに受けてた。人はこの方を自分の罪の贖いをなしてくださったキリストすなわち救い主であると信じる時に救われる。
人は他人の罪には敏感だが、死後に待っている自分の罪に対する神の裁きには無頓着になりがちである。しかし、自分の罪と向き合うものは他人の罪に安易に批判はできない。キリストを批判したパリサイ人は正にその典型である。人の罪を思う前に自分の罪と向き合い、キリストの招き受け入れ、その解決をする方が先なのである。
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他人の罪を責める前になすべき事がある。 https://t.co/l5Z7VGeCdF
— rieru (@Kyr20102Kyr2010) November 9, 2019