聖書の語る「信仰」は確信することであるる。

今晩は。rieruです。

聖書の語る福音の中核は下記に引用した聖書の言葉の通り「イエス・キリストを信じる信仰によって神の前に義とされる」という事である。

「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。」
‭‭ローマ人への手紙‬ ‭3:21-22‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/rom.3.21-22.口語訳

これは至って単純な教えであるが、「信じる」とは一体どういうことか。ともすると「信じる」という言葉は根拠があやふやなものに依存するような印象がある。少なくとも日本の社会で「信じる」という言葉を使う時は文脈的にあやふやなものに依存するという意味を持ちがちである。しかし、聖書の語る「信じる」はそういう意味ではない。

「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」
‭‭ヘブル人への手紙‬ ‭11:1‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/heb.11.1.口語訳

この言葉に聖書における「信じる」事の意味が記されている。(ここでは「信仰」と名詞で書かれているが、これは信じると同義である。)信仰は「望んでいる事がらを確信」するとある。聖書のいう「信じる」は確信なのであってあやふやなもなではない。「こうだったら良いな」とか「そうであるはずだ」という次元のものではなく、ハッキリと「こうである」と断言する事である。

もし仮に、神の前に救われたいと望むなら、信仰に妥協してはならない。聖書の語る事に福音対して「とりあえず」や「多分」と言った枕詞をつけないと語る事が出来ないならそこには救いはない。その枕詞がなくなるために必要なことは聖書と向き合う事だ。言い換えれば「これは真実なのか」という思いを持って聖書調べる事である。それがイエスが自分のキリストであると確信する道だから。

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