良き支配者であるヨセフとキリスト

今日は。rieruです。

今日はまず聖書の下記の言葉をお読み頂きたい。

「ヨセフは民に言った、「わたしはきょう、あなたがたとその田地とを買い取って、パロのものとした。あなたがたに種をあげるから地にまきなさい。 収穫の時は、その五分の一をパロに納め、五分の四を自分のものとして田畑の種とし、自分と家族の食糧とし、また子供の食糧としなさい」。」
‭‭創世記‬ ‭47:23-24‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/gen.47.23-24.口語訳

これはヨセフという人がエジプトの大臣として行った一つの政策である。当時のエジプトは大きな飢饉に見舞われていた。しかし、エジプトの国には大量の食物があった。なぜかというと飢饉の前に豊作があり、豊作の前に「豊作の後飢饉が訪れる」という神からの予言があったからだ。それをエジプトの王パロとヨセフが知っていたので、飢饉の時に蓄えがあった。予言はパロに夢という形で与えられ、それをヨセフが解き明かした事でヨセフは大臣になった。

ヨセフはエジプトに食物がなくなった時に、食料を与える条件として今後の収穫の1/5を要求した。これは随分と寛大な処置である。江戸時代の年貢は五公五民とか四公六民という状態だった事を思い浮かべればヨセフの政策が寛大である事をお分かり頂けるだろう。この時のヨセフは飢饉につけ込んで民から重税を取り立てることも可能だった。しかし、それをせずにエジプトの民に寄り添った。このヨセフの姿を見るとrieruは「良き支配者であるキリスト」を思い浮かべる。キリストもクリスチャンにとって「良い支配者」である。

「さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。 この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。 だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」
‭‭ヘブル人への手紙‬ ‭4:14-16‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/heb.4.14-16.口語訳

キリストはクリスチャンの長なる方だが、クリスチャンを哀れんでくださる。キリストは自分に従うものに寄り添い、必要な助けを与えてくれる。それを感じるからクリスチャンはキリストに従う事に抵抗感がない。人は誰かに従う事を苦痛に感じる事がある。それは上に立つ者が不完全で下の物に不快な思いをさせるからだ。クリスチャンにとってのキリストはそれとは真逆な存在である。キリストがヨセフのように下の者に寄り添う方である事はクリスチャンにとって本当に大きな事である。

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