老害はクリスチャンに相応しくない。

今日は。rieruです。

今日は老害になりかけたヤコブという人から、加齢のリスクについて考えたい。まずは下記の聖書の言葉をお読み頂きたい。

「ユダは父イスラエルに言った、「あの子をわたしと一緒にやってくだされば、われわれは立って行きましょう。そしてわれわれもあなたも、われわれの子供らも生きながらえ、死を免れましょう。 わたしが彼の身を請け合います。わたしの手から彼を求めなさい。もしわたしが彼をあなたのもとに連れ帰って、あなたの前に置かなかったら、わたしはあなたに対して永久に罪を負いましょう。 もしわれわれがこんなにためらわなかったら、今ごろは二度も行ってきたでしょう」。 父イスラエルは彼らに言った、「それではこうしなさい。この国の名産を器に入れ、携え下ってその人に贈り物にしなさい。すなわち少しの乳香、少しの蜜、香料、もつやく、ふすだしう、あめんどう。 そしてその上に、倍額の銀を手に持って行きなさい。また袋の口に返してあった銀は持って行って返しなさい。たぶんそれは誤りであったのでしょう。」
‭‭創世記‬ ‭43:8-12‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/gen.43.8-12.口語訳

少し舞台背景を説明すると、上記のやり取りが行われたのはイスラエルの国に飢饉があり、エジプトに食料を買いに行くかどうかを決めるときである。この時、上記のやり取りをしているヤコブ家の子供がエジプトに食料を買いに行くのは二度目だった。一度目にエジプトに行った時、エジプト大臣(先日紹介したヨセフ)から次に食料を買いに来る時は「末の弟を連れてくること」が条件とされていた。(末の弟を連れてくるという条件には意味があるのだが、本記事の本筋と関係ないので割愛)

ヤコブには可愛がっていた息子を失った過去があった。(可愛がっていた息子とはヨセフの事であり、実は生きていたのだが、この時点でヤコブには生存が知らされていなかった。)それ故にヨセフより下の息子であるベニヤミンをとても大事にしていた。だから1回目にエジプトに食料を買いに息子を使わす時にもベニヤミンを遣わさなかった。しかし、次回以降エジプトから食料を得るためにはベニヤミンがエジプトへ行く事が条件となってしまった。それ故ににヤコブは息子達を再度エジプトに食料を買いに行かせる事を躊躇していた。

飢饉で食料がないのだから、危険があっても食料を買いに行くのが合理的な選択だ。確かにエジプトへの旅には危険が伴う。しかし、絶対にベニヤミンを失うわけではない。一方飢饉で食べ物が尽きたら全員死ぬのである。ならば危険があろうともエジプトの大臣の言う通りするしかない。それが合理的な結論である。

だが、ヤコブはギリギリのところまで躊躇していた。人が頑固になって合理的な判断ができないようになるとそれを覆すのは難しい。この時のヤコブのように一定の経験を積んで自分の判断に自信を持つようになると年下から物申されても合理的に物事を処理出来なくなる。それを老害という。

しかし、ヤコブはギリギリの所で合理的な判断に戻ることができた。聖書を見ると若い頃ヤコブは決して出来の良い人間ではなかった。そのヤコブだが、年老いてから老害にはならなかった。そこにヤコブの成長を見る事ができる。

クリスチャンは老害になってはいけない。モチロンクリスチャン以外の人も老害にならないようにしなくてはいけないが、クリスチャンは特にその事が求められる。下記の聖書の言葉に示されるようにクリスチャンは日々新しくされなが生きていくべきである。日々新たなのに、過去の経験に囚われ、頑固になり視野が狭くなり老害となるのはクリスチャンに相応しくない。

「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。」
‭‭コリント人への第二の手紙‬ ‭4:16‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/2co.4.16.口語訳

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