とは言えお金を何に使うかは重要

今晩は。rieruです。

昨日、下記の記事でクリスチャンには金銭の心配は要らないと書いた。しかし、これはクリスチャンが浪費しても良いという意味ではない。

クリスチャンに金銭の心配は相応しくない。

信仰による魂の救いは神からの賜物だが、お金もまた、神からの賜物である。クリスチャンはそれを大切に使うべきである。私利私欲の為に浪費する事は、お金を与えてくれた神に対する背信行為である。お金もまた、「神の為に」使うべきものである。人が何かをなす時に、時間と並んでお金はどうしても必要なものである。基本的にはなすべき事の大きさに比例してお金と時間が必要になる。多額の支出がある時に、それに比例し時間が消費される。ある事に多くのお金と時間を費やすことは、それを費やした人にとってそれが大きな価値を持っている事を示す。

クリスチャンが神の事以外のものに収入の多くを捧げている状態はクリスチャンにとって相応しくない。「お金をなんの為に使っているか」ということもクリスチャンにとって大事な問いである。

ただし、「何が神の事」なのかという点は良く吟味しなくてはいけない。例えば神の為と言って家族が普段の生活に困る様なお金の使い方をするのは本当に神のためなのか考えなくてはならない。家族全員がひもじい生活をしても神に捧げるんだという事に同意しているならそれでも良い。しかし、クリスチャンでない家族にまでそれを強制するのは愛に欠ける行為というものだ。

仕事の為にお金を費やすとしてもそれが今後の生活に重要なもので有ればそれは時として神の為に働く基盤として必要な投資である。「何が神のためのお金の使い方なのか」という点はここの事情によるのであって外形的に一律に決められるものではない。それはクリスチャン個人個人が「神の前に恥じる事のないお金の使い方をしているか」を吟味して決める事である。

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