形式と中身の序列。

今晩は。rieruです。

形式が大事か中身が大事かというのは信仰以外話でも時に大きな問題になる。基本的には中身が大事だが、時にセレモニーが行われる事自体にも意味がある事がある。例えば学校の入学式や卒業式は入学や卒業の要件ではないが、その儀式に出席するという事に意味がある。特に入学や卒業までの過程で弛まぬ努力を要した場合などは式に参加するという行為がそこに至る努力を思い起こさせる効果があり、セレモニー自体に意味がある。なんでもなんでも中身が大事だから外見はどうでも良いというわけではない。聖書は形式と中身の関係について下記のように記している。

「しかし、あなた方パリサイ人は、わざわいである。はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を宮に納めておりながら、義と神に対する愛とをなおざりにしている。それもなおざりにはできないが、これは行わねばならない。」
‭‭ルカによる福音書‬ ‭11:42‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/luk.11.42.口語訳

ここでいう「十分の一を宮に納め」る事が形式であり、「義と神に対する愛」が中身である。形式はなおざりにできないが、中身は行わなければならないと教えている。つまり、中身がある事が第一で、形式はその次であるが無視できない。これが形式と中身についての聖書の態度である。

クリスチャンは形式より先に中身を充実させなければならない。しかし、その先に形式も整えなくてはならない。形式だけを追い求めるのは論外だが、中身が有れば形式はどうでも良いとはならない。例えば、聖書は男性のクリスチャンに短い髪を、女性のクリスチャンに長い髪を求めている。

「自然そのものが教えているではないか。男に長い髪があれば彼の恥になり、 女に長い髪があれば彼女の光栄になるのである。長い髪はおおいの代りに女に与えられているものだからである。」
‭‭コリント人への第一の手紙‬ ‭11:14-15‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/1co.11.14-15.口語訳

これは、下記のとおり、男のかしらはキリスト、女のかしらは男という教えに基づく形式である。キリストを現す男のかしらは覆ってはいけないが、男を現す女のかしらは覆われなくてはいけないという意味である。

「しかし、あなたがたに知っていてもらいたい。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である。 祈をしたり預言をしたりする時、かしらに物をかぶる男は、そのかしらをはずかしめる者である。」
‭‭コリント人への第一の手紙‬ ‭11:3-4‬ ‭口語訳‬‬

髪の長さは単なる形式である。中身が有れば良いという考え方からすれば髪の長さという形式で神の教えを尊ばなくても、心が有ればそれで良いという結論になる。しかし、神を尊ぶ心は形式でも現さなくてはいけないとするなら、聖書が男と女の髪の長さに意味を付与している訳だから、それも尊ぶという結論になる。最初に紹介した形式た中身の原則からすれば、心で神を尊ぶことは最初にどうしてもしなければならない事であり、髪の長さという形式で神を尊ぶことはなおざりにしてはいけない事である。しかし、双方大事にしなければクリスチャンの神に対する相応しい態度とは言えない。

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