新生という観点からヨハネによる福音書2章の奇跡を考える。
今晩は。rieruです。
下記のようにヨハネによる福音書の2章にキリストが水をぶどう酒に変える奇跡を行った方が書かれている。今日はこの奇跡と新しく生まれるというテーマを考えてみたい。
「そこには、ユダヤ人のきよめのならわしに従って、それぞれ四、五斗もはいる石の水がめが、六つ置いてあった。 イエスは彼らに「かめに水をいっぱい入れなさい」と言われたので、彼らは口のところまでいっぱいに入れた。 そこで彼らに言われた、「さあ、くんで、料理がしらのところに持って行きなさい」。すると、彼らは持って行った。 料理がしらは、ぶどう酒になった水をなめてみたが、それがどこからきたのか知らなかったので、(水をくんだ僕たちは知っていた)花婿を呼んで 言った、「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」。 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現された。そして弟子たちはイエスを信じた。」
ヨハネによる福音書 2:6-11 口語訳
https://www.bible.com/1820/jhn.2.6-11.口語訳
ヨハネによる福音書の大きな特徴として3章に出てくる「新生」という教えがある。これはキリストを信じたクリスチャンの内面が新しく生まれ変わるというものである。この2章の水をぶどう酒に変える奇跡は3章に出てくる新生の教えを暗示している。
まず、水とぶどう酒というの物質として全く違うものである。新生も人の内面も全く違う性質に変える事である。この奇跡と新生は「あるものの性質を根本的に変えてしまう」という点で共通点がある。また、ぶどう酒に変えられた水は水がめの中に入っていたので外から見るだけではその変化を知る事はできなかった。新生も外見的な変化はないので、外からそれを確認する事はできない。
だが、水がめの中にあるぶどう酒を外に出して味わってみるとその変化は一目瞭然だった。同じように人生も中を覗いて見れば分かる。中を覗くとはその人振る舞いや話すことを聞いて見ることだ。新生した人とそれなりの時間話して見ればその変化を実感する事ができる。また、水からできたぶどう酒は飲んだ者が驚くほどよいものだった。新生も「価値のない者」が「価値のある者」に変えられる事がその人本質である。罪の性質にまみれてどうしようない人が神のために役に立つ事を考え実行できる者に変えられる事が新生の本質だからである。
新生という観点からヨハネによる福音書の2章の奇跡を読むと聖書の教えの奥深さを知ることができる。
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— rieru (@Kyr20102Kyr2010) May 24, 2020