信仰によって神に頼る事も現実には簡単ではない。

おはようございます。rieruです。

今日は、神に願いをしながら、それを叶えられることを信じることができないという状態について語りたい。基本的にはクリスチャンは神が「全知全能」だと信じているので神に祈り願う時にそれを神が成すことができると信じている。しかし、クリスチャンの現実の姿はその通りにいかないこともある。聖書にはそのようなクリスチャンの弱さについても記されている。まずは、下記の聖書の言葉をお読みいただきたい。

‘こうして、ペテロは獄に入れられていた。教会では、彼のために熱心な祈が神にささげられた。 ‘

使徒行伝 12:5

https://my.bible.com/bible/1820/ACT.12.5

‘すると、突然、主の使がそばに立ち、光が獄内を照した。そして御使はペテロのわき腹をつついて起し、「早く起きあがりなさい」と言った。すると鎖が彼の両手から、はずれ落ちた。 彼らは第一、第二の衛所を通りすぎて、町に抜ける鉄門のところに来ると、それがひとりでに開いたので、そこを出て一つの通路に進んだとたんに、御使は彼を離れ去った。 その時ペテロはわれにかえって言った、「今はじめて、ほんとうのことがわかった。主が御使をつかわして、ヘロデの手から、またユダヤ人たちの待ちもうけていたあらゆる災から、わたしを救い出して下さったのだ」。 ペテロはこうとわかってから、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家に行った。その家には大ぜいの人が集まって祈っていた。 彼が門の戸をたたいたところ、ロダという女中が取次ぎに出てきたが、 ペテロの声だとわかると、喜びのあまり、門をあけもしないで家に駆け込み、ペテロが門口に立っていると報告した。 人々は「あなたは気が狂っている」と言ったが、彼女は自分の言うことに間違いはないと、言い張った。そこで彼らは「それでは、ペテロの御使だろう」と言った。 しかし、ペテロが門をたたきつづけるので、彼らがあけると、そこにペテロがいたのを見て驚いた。 ‘

使徒行伝 12:7,10-16

https://my.bible.com/bible/1820/ACT.12.7,10-16

まずは、この個所の背景事情を説明したい。使徒ペテロが迫害によって牢獄に入れられていて、教会はペテロのために祈っていた。神はその祈りに答えられ、御使いを通してペテロを奇跡的な方法で救出した。救い出されたペテロがペテロのために祈りを捧げていたクリスチャンの下に帰ったが、肝心のその人たちがペテロが救出されたという事実を信じることができなかった。

この時の人たちを「信仰が薄いクリスチャン」と断罪するのは簡単だが、クリスチャンと言えど完ぺきな存在ではない。rieru自身の経験としてもそうだが、神に祈りつつ「それでもこれは無理」と考えてしまうことがある。しかし、現実には奇跡的な方法で道が開かれることはある。そして、そういう時に神の力を改めて感じる。それがクリスチャンの実態でもある。

だが、だからと言ってそれでよいということにはならない。そんな不信仰な自分にも神は助けの手を伸べてくださるという事実に感謝し、信仰者として成長しなくてはならない。クリスチャンは(少なくともrieruのような未熟なクリスチャンは)ペテロの救出を信じることのできなかったクリスチャンを断罪するのはなく、それでも助けの手を伸べる神に感謝しつつ、不信仰な自分を戒める契機とすることが大切なことである。

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