人は自力だけ生きてはいけない。

今晩は。rieruです。

人にとって食物は欠くことのできないものである。人は食物がないと死ぬ。最近のコロナウイルスに関連する自粛要請に従わずに働く人は少なからず「食べるものに困るかもしれない」という恐怖に駆られているからである。人が働く理由の一つは間違いなく食物のためである。だが、ここには一つあまり意識されていない重要な問題がある。それは「働いても食物を生み出すわけではない。(農業従事者を除いて)」という事である。現代の多くの人は働いたとしても、直接食物を手に入れられるわけではなく、働いて得たお金で食物を買う。しかし、市場に食物がなかったら何もならない。農業従事者であっても食物を育ててはいるがその元になる苗や種を作るわけではなく、元々自然界に存在した苗や種をを調達したに過ぎない。あるいはそれを育てるに不可欠な水や土も人間が作ったものではない。水は海水では使い物にならず定期的に雨として地上に降ってこなければならない。実は人は突き詰めると生命を自分の力だけで維持する事のできない存在である。ところで、聖書はこの食物について下記のように語っている。

「神は過ぎ去った時代には、すべての国々の人が、それぞれの道を行くままにしておかれたが、 それでも、ご自分のことをあかししないでおられたわけではない。すなわち、あなたがたのために天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たすなど、いろいろのめぐみをお与えになっているのである」。」
‭‭使徒行伝‬ ‭14:16-17‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/act.14.16-17.口語訳

上記のように食物は神から恵みによって人に与えられていると語っている。人にとって作物の実りが必要であり、それは神によって与えられている。ここでは直接は作物を育てる水(雨)の事しか書かれていないが、聖書を遡って読むと作物は神が創って人にあたえたものであり、その種や苗が代々受け継がれてきただけであるということ聖書は記している。一度収穫しても種が残り更に次の代の種が残り続けるという仕組みやその作物が育つために必要な水や土があり、さらには太陽の光さえも整っていた環境は「自然」なのだろうか。自然とは偶然にそこにあったというニュアンスが含まれるが、その仕組みには偶然にできたとは思えない精密な機能が存在する。それはむしろ偶然にできたにしては「不自然な」程に精密にできている。そこに「神の人に対する愛情」という意思を感じると捉えたほうが「自然」なのではないだろうか。

「自己責任」という言葉が流行り、あたかも自分の力で生きていく事が当然という風潮が強くなりつつあるが、そもそも人は「自力」で生きる事のできない存在である。そこに神の助けがなければ生きていけない存在である。人はまず謙虚になってその事実認めるべきである。

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