聖書を読む時に眠気を催す状態は要注意。

おはようございます。rieruです。

何かをしている時眠くなる時はどんな時だろうか。極度に疲れている時か。確かにそういう事も一定程度ある。しかし、そういう事は稀で、実際は今してある事がつまらないという理由の方が多い。自分が大好きなエンターテイメントをやっている時に眠くなるかというと余程な事がなければそんな事はない。一方、学校のつまらない授業では簡単に眠くなる。ようは眠くなるか否かはその人が興味を持っているかという事に大きなポイントがある。その事を前提に下記の聖書の記事を読んで頂きたい。

「週の初めの日に、わたしたちがパンをさくために集まった時、パウロは翌日出発することにしていたので、しきりに人々と語り合い、夜中まで語りつづけた。 わたしたちが集まっていた屋上の間には、あかりがたくさんともしてあった。 ユテコという若者が窓に腰をかけていたところ、パウロの話がながながと続くので、ひどく眠けがさしてきて、とうとうぐっすり寝入ってしまい、三階から下に落ちた。抱き起してみたら、もう死んでいた。 そこでパウロは降りてきて、若者の上に身をかがめ、彼を抱きあげて、「騒ぐことはない。まだ命がある」と言った。 そして、また上がって行って、パンをさいて食べてから、明けがたまで長いあいだ人々と語り合って、ついに出発した。 人々は生きかえった若者を連れかえり、ひとかたならず慰められた。」
‭‭使徒行伝‬ ‭20:7-12‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/act.20.7-12.口語訳

この場面で眠り込んでしまったユテコは大分疲労が溜まっていた事は間違いない。しかしそれだけだろうか。ユテコの中でパウロの語る言葉に対して興味を失っているという事はなかったか。この聖書の記事からだけではその事を確定できないが、一般論としてはその可能性を疑う所だし、聖書が聖書の語る言葉に興味を失う事への警告としてこの記事を書いていると捉える事は可能だとrieruは考えている。

少なくともrieru個人としてはこの記事を自分への警告だと捉えたい。rieruの信仰生活の中で信仰的な状態が悪い時は聖書の語る事への関心が薄くなったりする。その時に無理矢理に聖書を開いても頭に入ってこなかったりする。恥ずかしながら聖書を読みながら眠気を催す事もある。そう考えると、聖書を読んで眠くなるような状態の時は、それこそ心の目を開いて聖書を通して神の語る言葉に耳を傾けるよう努めるべきと教えられる。

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