弱き者を助ける。
おはようございます。rieruです。
今日は「弱い者を助ける」という事について語りたい。ますは、下記の聖書の言葉をお読みいただきたい。
「わたしは、人の金や銀や衣服をほしがったことはない。 あなたがた自身が知っているとおり、わたしのこの両手は、自分の生活のためにも、また一緒にいた人たちのためにも、働いてきたのだ。 わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」。」
使徒行伝 20:33-35 口語訳
https://www.bible.com/1820/act.20.33-35.口語訳
これはパウロの言葉であるが、ここでパウロは「弱い者を助けなければならない」と語ってある。そして、パウロは本来、伝道者として他のクリスチャンから金銭的に援助を受ける立場にあった事と金銀を欲しがった事はないと言った上で他の人のために働いたと語っている文脈を考えると、これは金銭的にパウロが他のクリスチャンを助けたという意味である。
これは近年の日本の貧困を「自己責任論」として扱う社会とはだいぶ違う考え方である。社会として金銭問題が自己責任と捉えられるとしても、クリスチャンの間でそういう考えではいけない。クリスチャンの間で金銭的に困った人がいるなら持てるものが持たざる者を助けるべきである。なぜならパウロ程のクリスチャンが自ら働いて得たお金で他のクリスチャンを助けてきたのだから、それに倣うべきである。
これは、新訳聖書の時代にあって最も大切な教えにも通じる。新訳聖書のクリスチャンに対する最も大事な命令の一つは「隣人を愛する」である。これはキリストが十字架にかかる前、これからキリストが天に帰ったのち、この世を生きる弟子達に残した大切な教えである。クリスチャンに近くにいるクリスチャンは間違いなく「愛すべき隣人」である。その隣人が金銭で困っていたら助ける事は自然な事である。勿論、お金だけあげておけば良いという事ではなく、精神的に支えるという事と大事である。貧困状態のクリスチャンを「できない奴」と心で見下し、「金を恵んでやる」などと考えてお金を与えても何の意味もない。心で愛する事を前提として金銭も与えるというのが「隣人を愛する」事である。
また、キリストの隣人愛の教えには「互いに」という注釈も付いている。金銭面で富めるクリスチャンから金銭を受けたクリスチャンは、他の方法で富めるクリスチャンに愛を示す事が必要である。お金がないならば時に労力を提供して、金銭面の援助への感謝の気持ちを現すべきである。あるいは、金銭に余裕ができた時は与えられた中でそれを与えてくれたクリスチャンに返すという事も大事である。
クリスチャンにとって弱き者は排除すべきではなく、愛すべき存在である。
ブログ村のランキングに参加参加しました。本記事を評価頂けるようであれば、本ブログを応援する意味も込めて下記のバナーをクリックして頂けると幸いです。
にほんブログ村
本ブログはコメント欄を設けておりません。コメントがある場合は、お手数ですが下記のツイートのリプでお願いします。
弱き者を助ける。 https://t.co/gONF6AuO7k
— rieru (@Kyr20102Kyr2010) June 11, 2020