キリストが私達のために示した愛の大きさ。

今晩は。rieruです。

今日はキリストがどれほど私達人間を愛しているかという事を語りたい。唐突だが、誰かに愛されていると感じる時はどんな時だろうか。答えは色々あるだろうが、「他人が自分のために何か犠牲を払ってくれた時」はその答えの一つである。犠牲の払い方は色々ある。例えば、遠くから時間とお金を使って会いに来てくれるというのはその犠牲の一つである。自分ために時間と労力を使って自分に必要なものを用意してくれる事なども同様である。その中の一つとして、「自分の大切にしているものを与える」という犠牲の払い方がある。人間は自分にとって不要なものをあげるという行為はある程度親密な相手には喜んでできる。しかし、替えの効かない大切なものはたとえ相手と三密な関係にあっても与えることはできない。それを与えるというのは極めて大きな犠牲であり、それをしてくれる相手には大きな愛を感じる。

聖書にはその犠牲の極地が下記のように記されている。

「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭15:13‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/jhn.15.13.口語訳

犠牲の極地は命である。命は一度失われると取り戻す事はできない。人間にとって最も払いたくない犠牲である。しかし、それを与えるとしたらそこには極限の愛である。

ただし、人がそれをできる相手は「友」までである。親子や夫婦の間では時にそういうこともできるが、友のためには基本的に難しい。命を与える事のできる友を持つ事は極めて稀である。それができるとしてらそれは人間にとって最高の愛だと聖書は教えている。その事にはクリスチャンでない人も同意できるところだろう。

しかし、この人にとって最高の愛を飛び越えて更には大きな愛を示した方がいる。それはキリストである。キリストは罪人である私達達のために十字架で命を犠牲にした。私達の罪の償いのためにはキリストが死ぬ必要があった。キリストは罪人である私達を愛して死んでくださったが、それは全く価値のない者のための死だった。キリストにとって罪を犯す人は醜い存在である。キリストにとっては罪人は極悪な犯罪を犯して誰の目にも死刑にされて仕方なしと言われるような人と同様に醜い。私達はそんな人のために命という犠牲どころかわずがな金銭を与える事すらしないが、キリストはそうではなかった。人の世界で死刑にされて当然な犯罪人と同じように醜い罪人である私達のために死んだ。

ここにキリストの愛を見る事ができる。キリストはクリスチャンの事を「友」と呼ぶ。極悪非道な犯罪者と同じ価値しかない私達を友として扱ってくれた。しかも命まで与える程大切な友として。それががキリストが私達人に対して示した愛である。

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