神に対する悔い改め。

今晩は。rieruです。

神に対する悔い改めは聖書の語る福音の中で大きな要素だが、どうしたら人が悔い改めるのだろうか。その事の答えは下記の聖書の言葉にある。

「そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。 立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。 もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。」
‭‭ルカによる福音書‬ ‭15:17-19‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/luk.15.17-19.口語訳

これはルカによる福音書に書かれているキリストが語った例え話の一節である。これは良く「放蕩息子の例え」と言われ、有名な話しである。ここで放蕩息子は今まで背を向けていた父に対して心を向けた。放蕩息子は父から財産の分け前を貰う(遺産を父の生前に要求して貰った)と、遠い国に旅をし、湯水のように財産を浪費する生活に入った。その時、放蕩息子は父に心を向けずに生活をしていた。(父に心を向けたら、遺産を生前に要求したり、それを湯水のように使ったりはできない。)しかし、ここで今まで長い間心を向けずに来た父のところに何があるのかを考えた。また、父の所に戻りたいと考えるようになった。この時、確かに放蕩息子の心は父のほうを向いていた。同じように神に対する悔い改めとは、人がそれまでの人生で無視してきた神に心を向けることである。ここで放蕩息子がした事こそ、神に対する悔い改めが具体的にどういうものかという事を教えている。

そして、この放蕩息子がなぜ父親に心を向けたのか。その理由こそ人が神に対して悔い改める動機である。では放蕩息子が父親の方へ心を向けた理由とは何か。それは「いのちの危険」である。放蕩息子は父親にもらった財産を遠い国で浪費した。その結果手持ちの金がなくなり飢え死にしそうになった。その時、自分の父親の家に食べ物がある事を思い出した。そして、何とかして父の元に帰る手段はないかと真剣に考えた。放蕩息子はいのちの危険を感じた時心が父親に向いた。同じように人は自分のいのちに危険がある事を心底感じた時、いのちの問題の解決してくれる神の方に心を向く。

しかし、ここには二つの大きな問題がある。一つ目は人はいのちの問題について目に見える問題がないと考えないという事である。もう一つはいのちの問題について解決できる神の事を知らない場合があるという事である。まず、最初の問題について言えば、いのちの問題は誰にでもある。そしていつ起こってもおかしくない。別に余命宣告がなくともいのちの問題は常に考える必要がある。しかし、日常の生活の中で直ぐには起きそうない事なので優先順位が下がっている。だか、それは放蕩息子が父から与えられた財産が永遠にあるかのごとく使いまくっていた状態と同じである。放蕩息子の財産が有限であったように、人のいのちは有限である。幸運にして今日いのちは保たれるかもしれない。しかし、それが明日保たれる保障は誰にもない。確率の問題として若い人は生きる可能性が高いだけでそれは絶対的なものではない。だからいのちの問題を真剣に考えなくてはいけない。放蕩息子のように餓死寸前でないとしても人はいつ死ぬか分からない存在だからである。

もう一つの問題はについてrieruは人がいのちの問題を真剣に考えた上で聖書を読めば必ず聖書の語る神に心を向けるようになると信じてやまない。聖書の語る言葉は真剣にいのち問題を考える者の心には必ず響く。それだけの力が聖書の語る言葉にはある。聖書の語る言葉が心に響いたならば、聖書の語る神に心を向ける。それは必然である。神に対する悔い改めとはいのちの問題を真剣に考える中で聖書読む時に起こる心の反応である。是非いのちの問題について真剣に考えるなら聖書と向き合って欲しい。

ところで、神に心向けただけで全てが解決するのかというとそうではない。その先にも人がなすべき事がある。それについても語りたいが、だいぶ長くなったのでひとまずこの記事はここまでとし、次の記事で神に対する悔い改めの先になすべき事を語りたい。

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