十字架への道を自らの意思で進んだキリスト
今晩は。rieruです。
今日はまず、下記の聖書の言葉をお読み頂きたい。
「すると、イエスはペテロに言われた、「剣をさやに納めなさい。父がわたしに下さった杯は、飲むべきではないか」。」
ヨハネによる福音書 18:11 口語訳
https://www.bible.com/1820/jhn.18.11.口語訳
この言葉は、キリストが、当時のユダヤ人に不当に捕まりそうになり、使徒ペテロが敵を剣で切り付けた時に語った言葉である。この言葉の中にキリストの十字架に対する覚悟を見ることができる。ここで言う「父がわたしに下さった杯」とは十字架で罪人の罪の裁きを代わって受けて死ぬ事を示している。それを避けるつもりはないので、ユダヤ人の愚行を止める必要はないとキリストは語っているのである。
妬みから自分を亡き者にしようとしてやってくる輩に抵抗しないという事があるのだろうか。しかも、下記のようにキリストには一言言葉を発するだけで敵を地に倒す力があった。
「彼らは「ナザレのイエスを」と答えた。イエスは彼らに言われた、「わたしが、それである」。イエスを裏切ったユダも、彼らと一緒に立っていた。 イエスが彼らに「わたしが、それである」と言われたとき、彼らはうしろに引きさがって地に倒れた。」
ヨハネによる福音書 18:5-6 口語訳
https://www.bible.com/1820/jhn.18.5-6.口語訳
ペテロが剣で対抗するまでもなく、キリストはこの場から去る力があった。しかし、それでもその力を使ってこの場所から去ることはしなかった。
なぜか。
それは、罪人である私達の救いのためである。神の前に罪人救われるためにはキリストの罪のない血が流される必要があった。罪のない方であるキリストのいのちが代わりに犠牲になる必要があった。キリストは罪のない自分の血を流す事で私達に対する神の怒りをなだめる必要があった。だから、ここでキリストは覚悟を持って十字架への道を自ら進んだのである。
神の怒りに身を任せることは言葉にできない程大きな苦痛である。キリストはそれを知っていた。しかし、それを逃れなかった。それは私達を救いたいというキリストの愛の現れである。rieruは自ら進んで私達の救いのために十字架への道を歩んだ姿を見てキリストの愛を覚えて感動する。これをお読みの方はこのキリストの姿をに何を感じるだろうか。願わくはそこにキリストの愛を実感してほしいとrieruは願っている。
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— rieru (@Kyr20102Kyr2010) September 18, 2020