心の闇を自覚した者は救いに近い?

今晩は。rieruです。

今日はrieruが完璧には理解できていない聖書の言葉について語りたい。それは下記の言葉である。

「「こころの貧しい人たちは、さいわいである、 天国は彼らのものである。 悲しんでいる人たちは、さいわいである、 彼らは慰められるであろう。」
‭‭マタイによる福音書‬ ‭5:3-4‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/mat.5.3-4.口語訳

「こころが貧しい」ことや「悲しんでいる」ことが幸いと言われてもなかなかピンとくる人は多くないだろう。しかし、聖書は「こころが貧しい」人には天国が与えられ、「悲しんでいる」人には慰めが与えられると言っている。だが、現実には悲しんでいる全ての人に慰めが与えられているわけではない。聖書の他の教えを考える「こころが貧しい」すべての人が天国に行くとは限らない。天国に入るには「神の義」が必要であるからだ。

では、最初の聖書の言葉はどう理解すべきなのか。rieru的には、心に何らかの満たされない思いを抱える者はそれを埋める努力をするので、その結果、神を信じ、信仰によりキリストによる十字架による救いに至る確率が高いという意味だと理解している。

rieruは幼少の頃から心に表現する事が難しい闇がある事を自覚していた。それをなんとか埋めたいと思った。そして、その解決を親がクリスチャンだったが故に与えられた聖書の中に見出した。幼少の頃から他のクリスチャンの家庭に育った子供を知っているが、皆がrieruのような道を歩むわけではない。その差はなんだったのかと考えるとrieruが心にある闇を自覚していたからだと思っている。クリスチャンであるrieruの妻にその事を伝えると似たような経緯を持っている。

そう考えると心に何らかの闇を抱えるとその解決を探るので救いに至りやすい。結果として、その人に天国が与えられ、慰めが与えられるというのはある程度的を得た話に思える。ただ、やはり最初の聖書の言葉を字面の通り解釈できているかというとそうではないようにも思う。そういう意味では最初に紹介した聖書の言葉はどう理解すべきかまようところもある。

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