クリスチャンがキリスト以外のもので心を満たそうとする愚かさ。

今晩は。rieruです。

今日はrieruが日常で陥りやすい過ちについて語りたい。まず下記の聖書の言葉をお読みいただきたい。

「イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。 しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。」
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭4:13-14‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/jhn.4.13-14.口語訳

これはキリストの言葉の一つだが、まず注目してほしいのが「わたしが与える水」である。これはキリストを信じる者に与えられる聖霊の事だと個人的には思っている。そして、「永遠の命に至る水」とは聖霊がクリスチャンに教えるキリストの事だと理解している。クリスチャンはキリストを信じた後もキリストの事を更に深く知る必要がある。聖書のたの所には下記のようにある。

「また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、 すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、 また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。」
‭‭エペソ人への手紙‬ ‭3:17-19‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/eph.3.17-19.口語訳

これはパウロがクリスチャンに語った言葉だが、ここにも「キリストがあなたがたの心のうちに住」む事や「キリストの愛を知」る事がクリスチャンに求められている。クリスチャンはキリストを知ったから信じるのだが、そこでキリストの全てを知るという事はない。クリスチャンがキリストを知るという点で完璧はない。更に聖書は下記のようにも語っている。

「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。」
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭17:3‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/jhn.17.3.口語訳

ここには永遠の命はキリストを知ることであると書かれている。冒頭に紹介した聖書の言葉にある(クリスチャンの中に)「永遠の命に至る水が、わきあがる」聖書がクリスチャンの心にキリストの事を知らせる事だとrieruが理解するのはキリスト知る事が永遠の命の本質だからである。だから当然かわくことがないという事になる。これは物理的な喉の渇きではなく、心をに満足をえるという事である。

だが、rieruは心の満足という意味でもかわくことが事がある。なぜかというと自分に本当の満足を与えるはずのキリスト以外のもの欲してしまうからだ。キリスト以外のものに目を向ける時rieruの心はいつまでも満たされない。一時満足できても更に欲しくなる。そうなったらクリスチャンとしては正常な状態ではない。そんな時rieruは我に返り自分の中にいるキリストに目を向ける。そしてクリスチャンとしての満足をもう一度取り戻す。それがrieruの信仰生活の実態である。少しでもキリストを見る状態を安定的に保ちたいというのが今のrieruの目標であり、多分死ぬまで抱える課題だと思う。

ブログ村のランキングに参加参加しました。本記事を評価頂けるようであれば、本ブログを応援する意味も込めて下記のバナーをクリックして頂けると幸いです。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

本ブログはコメント欄を設けておりません。コメントがある場合は、お手数ですが下記のツイートのリプでお願いします。