心を満たす水。

おはようございます。。rieruです。

人は常に喉に渇きを覚える生き物である。喉を潤す水分がなければ人は死んでしまう。その意味で水という天然資源は最も重要なものである言っても過言ではない。ちなみに、水は人が作り出すことは出来ず、雨が振るのを待ってそれを貯めて計画的に使う事しかできない。なぜ水が地球にあったのか?という事を考えるとそこに神の創造の力を見る事ができるのだが、その話はまたの機会としたい。本題に戻ると、聖書のヨハネによる福音書を読むとキリストが喉の渇きを、題材として人の心にある渇きについて語っている。まず下記の記事をお飲み頂きたい。

「イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。 しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。」
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭4:13-14‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/jhn.4.13-14.口語訳

この箇所の前段にでてくる「この水」とは物質的か水の事を指しており、その水をいくら飲んでもまた喉が渇く。しかし、後段にでてくる「わたしが与える水」は物理的な水の話ではない。この水は人が飲むと「永遠の命に至る水」になる。物理的は水は永遠の命とは何ら関係がない。ここでキリストが言わんとする事は「喉を潤す水は大事だけど、それ以上に大事なのは人の心の渇きを満たす水を自分のものにする事である。」という事だ。私達は喉の渇き以上に心のが渇いている。それをみたすものを探し続けて色んな事をやってみる。しかし、水を飲んでも喉が渇くように、心も一時何かで満たしてもまたすぐ別のものが欲しくなる。キリストはその心の渇き満たし、更に永遠の命に至る水となる水を与えると言っている。ではその水とは何なのなのか。その問いの答えが下記の記事にある。

「祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。 これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。」
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭7:37-39‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/jhn.7.37-39.口語訳

ここでもキリストは「わたしのところに来て飲む」ように人々に訴えている。そして、その水は飲んだ者の腹のなかで「生ける水」となるとある。そして、生ける水は御霊だと記されている。聖書の中で御霊と永遠の命は深い関係がある。ヨハネによる福音書の3章によれば永遠の命に至るためには新しく生まれる必要があり、テトスへの手紙3章を見るとこの新生には聖霊(御霊の別名)による記されている。つまり、生ける水である御霊が永遠の命にいたる水であると分かる。

以上の事を前提に考えると、最初に引用した記事は「キリストが与える水を飲む事」は、キリストを信じる事であり、それによって心の渇きが癒されるだけでなく永遠の命もそれに加えて与えられるという事を意味する。

この事は、キリストを信じたrieruの実感として真実である。キリストを信じるとそれによって与えられる満足が心にある。時として「また渇く水」である他の喜びを追い求めている自分がいるが、それは時が来るとまた渇く。しかし、心がキリストの方に向いた時、心の潤いを実感する。常に心がキリストの方に向いているなら心が渇く事はない。問題は永遠に心を満たす水を心から排出してしまう自分の弱さにあると自覚しながらrieruは生きている。だから、rieruにとってキリストを信じる事が永遠に心を満たし続けるという聖書の教えは真実である。そして、自分の中に心を満たす水であるキリストがいるので、永遠の命に至る水である御霊の存在と永遠の命もまた真実だとrieruは信じている。心満たす術を持って生きる事ができる。これはクリスチャンの大きな特権であるとrieruは思う。

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