使徒ペテロを叱責する事を躊躇しなかった使徒パウロの覚悟。

おはようございます。rieruです。

おそらくクリスチャンでない方の中にも「使徒パウロ」「使徒ペテロ」という名前を聞いた事があるという人は多いだろう。それぐらい2人の聖書の福音や教えを世界に広めるために成し遂げた事は大きい。しかし、使徒パウロが使徒ペテロを公然と非難した方があるという話はあまり知られていない。今日はこの事について語りたい。まず、聖書には下記のように記されている。

「ところが、ケパがアンテオケにきたとき、彼に非難すべきことがあったので、わたしは面とむかって彼をなじった。 というのは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、彼は異邦人と食を共にしていたのに、彼らがきてからは、割礼の者どもを恐れ、しだいに身を引いて離れて行ったからである。 そして、ほかのユダヤ人たちも彼と共に偽善の行為をし、バルナバまでがそのような偽善に引きずり込まれた。 彼らが福音の真理に従ってまっすぐに歩いていないのを見て、わたしは衆人の面前でケパに言った、「あなたは、ユダヤ人であるのに、自分自身はユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活していながら、どうして異邦人にユダヤ人のようになることをしいるのか」。」
‭‭ガラテヤ人への手紙‬ ‭2:11-14‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/gal.2.11-14.口語訳

ここでいうケパとはペテロの事である。ペテロはユダヤ人に忖度して(ペテロはユダヤ人)福音の本質的な部分を曲げるような行動をとってしまった。そこでパウロは公衆の面前でペテロを非難した。公衆の面前非難するのは余程の事だ。しかも、ペテロはパウロの先輩にあたるクリスチャンである。先輩に向かって公衆の面前で非難するのは相当大きな覚悟が必要だ。しかし、パウロは福音の本質が曲げられようとした時それを躊躇するとなく行った。

パウロにとって人のメンツとか、先輩を立てるとかは福音の前に小さな事だった。パウロは福音を守るためならなんだってするクリスチャンだった。必要があれば命も差し出す。だから相手が偉大な先輩だろうとパウロは躊躇しなかった。その方が聖書の中に記されて今に至るまで残されている所にそのことの大切さを知る事ができる。(今の世ならペテロによって、あるいはペテロに忖度した周りの人々によって書物から消し去られそうである。)

ペテロを相手にもひるむ事なく福音を守るために行動したパウロの覚悟にクリスチャンとって大切なものが宿っているのである。

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