天に望みを持つ者は誰かという視点で考える。

今日は。rieruです。

物事を考える時にどの視点から見ているかという事は重要なポイントである。例えば、一流スポーツ選手が調子が良いと鳥の目を持って自分の位置を確認できるという。普通の人間の視野からは上空からの自分の立ち位置は見えないので、それが見えるとすれば極めて有利にゲームをすすめる事ができる。これは全ての事に通じる話で、物事を見つめる視野は出来るだけ広い方が良い。ところで、クリスチャンが物事を見つめる時に大事な視点とはなんだろうか。例えば、コロサイ人の手紙には下記のように記されている。

「これは、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対していだいているあなたがたの愛とを、耳にしたからである。 この愛は、あなたがたのために天にたくわえられている望みに基くものであり、その望みについては、あなたがたはすでに、あなたがたのところまで伝えられた福音の真理の言葉によって聞いている。」
‭‭コロサイ人への手紙‬ ‭1:4-5‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/col.1.4-5.口語訳

ここではクリスチャンの愛について「天に蓄えられている望み」が理由だと書かれている。クリスチャンは皆死後天に迎え入れられる。それは神の子としての立場を持っているからだ。自分が神に愛されているように他のクリスチャンも神に愛されている子である。その同じ立場にある者同士が互いを愛する事は当然の事である。これがこの聖書の言葉の意味である。

この時、物事を見ている視点はどこにあるだろうか。それは「天」である。今はこの世に置いてクリスチャンもそうでない人も混在している。時にクリスチャン同士のいさかいがあったり、逆にクリスチャン以外の人がクリスチャンの味方をする事もある。そういう現実に直面すると「誰を愛すべきか」という優先順位が分からなくなる事もある。しかし、この世の人生が終わった後永遠の時間を天で共に過ごす者は誰なのかという視点で考えた時、その優先順位が明確になる。

勿論それはクリスチャン以外の人を蔑ろにして良いという意味ではない。クリスチャンでない人がどんなに自分によくしてくれるとしても、その人が天に国籍を持つ者ではない。クリスチャンはその人を愛して、その人が天に国籍を持つべく福音を伝える必要がある。決してその人を愛してはいけないという事ではない。

大事な事は、クリスチャンの間で互いに愛し合うという関係を蔑ろにして、クリスチャンでないけれど自分に良くしてくれる人との時間を優先するのは相応しくないという事である。クリスチャン同士の関係が壊れているのに神の愛やキリストの愛が中心である福音を伝えるとしてもそこには説得力がない。

このように天に望みがある者は誰かという視点で物事を考えるとクリスチャンのなすべき事の優先順位が明確になるのである。

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