ヘブル人への手紙の一考察

おはようございます。rieruです。

今日はヘブル人への手紙を語りたい。ヘブル人への手紙は個人的には少し敬遠したくなる書である。それは下記のように一度救われたクリスチャンが滅びに至る可能性を示唆する言葉が書かれているからだ。

いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、 また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、 そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である。 たとえば、土地が、その上にたびたび降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ作物を育てるなら、神の祝福にあずかる。 しかし、いばらやあざみをはえさせるなら、それは無用になり、やがてのろわれ、ついには焼かれてしまう。

ヘブル人への手紙‬ ‭6:4-8‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/heb.6.4-8.口語訳

しかし、最近ヘブル人への手紙読んでいて実はそうではないのかな?と思うようになった。ヘブル人への手紙全体を通読するとその根底には旧約聖書の律法は救われず、キリストの十字架を信じる信仰によって救われるというメッセージで溢れている。そういう観点で見ると少し違った見方ができる。例えば、上記の言葉には下記のような言葉が続く。

しかし、愛する者たちよ。こうは言うものの、わたしたちは、救にかかわる更に良いことがあるのを、あなたがたについて確信している。 神は不義なかたではないから、あなたがたの働きや、あなたがたがかつて聖徒に仕え、今もなお仕えて、御名のために示してくれた愛を、お忘れになることはない。

ヘブル人への手紙‬ ‭6:9-10‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/heb.6.9-10.口語訳

これは手紙の受け手は上記のようなものではなく、その救いは確かであるという意味である。つまり手紙の上記の救いが失われるかのごとく読める警告の言葉の対象は手紙の受け手ではないという事だ。他にも下記のような言葉がある。

それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。 というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。

ヘブル人への手紙‬ ‭4:1-2‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/heb.4.1-2.口語訳

ここでは神の安息(すなわち天国)に約束について言及されているが。ここでは「あなたがたな中」からそこから漏れる人がいないようにすべきと言われている。ここも救われたクリスチャンから救いに漏れるものがでるという意味にも読める。しかし、ここでも「万一にも」という限定付である。また、信仰によって福音を無益にしてしまったものについては「彼ら」という代名詞が使われていて手紙の受け手の事を直接指しているわけでもない。そして、この言葉には下記のことざが続く。

ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。それは、 「わたしが怒って、 彼らをわたしの安息に、はいらせることはしないと、 誓ったように」 と言われているとおりである。しかも、みわざは世の初めに、でき上がっていた。

ヘブル人への手紙‬ ‭4:3‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/heb.4.3.口語訳

ここでは「わたしたち」という代名詞で手紙の受け手を総称して「安息にはいる」と断言している。どうもヘブル人への手紙には手紙の書き手、受け手は救われていて、その他に救われていない人が登場するよう思われる。そしてそれが混在しているから解釈を難しくしている。

ではなぜそんな事が起きたのか。恐らく、このヘブル人への手紙の受け手の中には旧約の律法に縛られていてキリストの十字架を信じる信仰に至っていない人が紛れこんでいたのではないか。そして、その人達の影響で救われたクリスチャンも律法主義に戻るというガラテヤ人への手紙で起きていたような問題が起きていたのではないか。だから、律法主義から真のクリスチャンを救い出すことと、クリスチャンと言いながら救いを受けていない人への警告を目的としてこの手紙が書かれたのではないだろうか。

そう考えると冒頭紹介した警告の言葉が良く理解できる。

いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、 また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、 そののち堕落した場合

これが、警告の言葉だが、ここではストレートに救われたとか信じたという言葉はない。よく読むとこの言葉は、「車の試乗をしてその良さが分かった」というレベルに聞こえる。具体には、クリスチャンから福音をききその素晴らしさを知り、クリスチャンの中で生活もしてキリストの素晴らしさを味わってはいるが、自分自身は律法の中にとどまりキリストを信じる信仰はないという人が想定される。そういう中途半端なものに救いはないという強烈な警告だとするとその言葉のキツさを理解できる。そう考えた時rieruの長年の違和感はある意味解消したのである。

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