人が神の義の基準を満たす為に必要なこと。

今晩は。rieruです。

昨日下記の記事で人は神の義の基準を満たす事はできないという事を書いた。今日はその問題を人はどうやって解決できるのかという事を語りたい。

聖書の語る義の基準

実はその答えは昨日の記事で引用した良きサマリヤ人の例えに隠されている。神の義の基準を満たす事のできない人間は良きサマリヤ人の例えで言えば、強盗に半殺しにされた人のようなものだ。半殺しにされて道に放置されて動かなければそのまま死ぬより他ない。そこから救われるためには他人の助けが必要である。同じように人は自分の力で神の義の基準を満たす事は出来ないのでその問題を解決するには他人の助けが必要である。神の義の基準を満たさないまま肉体の死を迎えたならばその先待っているのは神の永遠の刑罰である魂の死である。例えの中で強盗に襲われた人を助けたのはサマリヤ人だったが、神の義の基準を満たさない人を救って下さる方はイエス・キリストである。

「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、」
‭‭コリント人への第一の手紙‬ ‭15:3‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/1co.15.3.口語訳

聖書はこのようにイエス・キリストの死をの意味を語っている。それは私達の罪のためであった。もう少し詳しく説明すると私達が神の義の基準を満たさない事(この事言い換えると罪である)のために受けるべきさばきをキリストが代わってうけて下さったという事である。サマリヤ人は自分の財産と労力という犠牲を強盗に襲われた人の救いのために払ったが、キリストは私達の救いのために自らの命を犠牲にしてくれた。

強盗に襲われた人はサマリヤ人を信頼して自分を委ねるだけで救われた。同じように人もキリストの救いを信頼して自らの魂をキリストに委ねるだけで救われる。具体的に言えば、イエス・キリストを自分のために命をかけて救いの道を用意してくれた救い主として信じる事で人は救われる。

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭3:16‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/jhn.3.16.口語訳

この聖書の言葉で言うところの「御子」とはイエス・キリストであり、その御子を信じる時、人の罪の問題は解決され永遠の命を得る事ができる。人の罪はキリストを信じる時神の前に無かったものとみなされる。それは人が善人になるわけではない。しかし、ただキリストが代わりに罪のさばきを負って下さったという事実だけで罪は赦される。そして、そこに永遠の命があると聖書は語るのである。