目に見えない神の力に頼る事について。

今晩は。rieruです。

クリスチャンは何か問題が起こった時に自分の目には見えない解決法に身を委ねることがある。クリスチャンでない方も時に問題解決の方法を探った結果今まで誰も考えてこなかった方法に行き着く事はある。しかし、それは自らその解決法探り、これならいけるという感触を得て実行するというプロセスを経るのが一般的だ。

クリスチャンが自分の中では姿が見えない方法を選択する場合には、全くアテがない事がある。アテはないけどどこかに神の答えが用意されていると信じて待つ時に道が開ける。それがクリスチャン的な問題解決の方法の事がある。モチロン、クリスチャン全ての場合にこの無謀に見える方法に身を委ねる訳ではない。目の前の選択肢の中に答えがある事もある。色々試行錯誤してどれも神の意思にかなわないと判断した時に最後の手段として神の導きを待つという選択をするのである。

なんのアテないけど、今自分の目で見えないけれど答えはあると信じるとことは容易ではない。クリスチャンが、それができるのは信仰に至る過程での目に見えない神を信じた事に基づく。クリスチャンが信仰に入る前に聖書を通して神の存在をしり、その神の存在を実感して、神を信じる。この過程こそ、目に見えないものに頼る原点である。目に見えない神の存在を実感しているからこそ、その神の力を感じ、自分にはどうにもならないことでも神の力による解決があると確信する事ができる。

しかし、クリスチャンでも時に目の前に起こる事に心を奪われてしまう。使徒ペテロですら、自分いのちが危うくなるとキリストを知らないと三度も宣言してしまった。目に見えない神の力に頼る事は難しい。クリスチャンは常に目に見えるものだけに支配されていないかをチェックし、それを修正することために、目に見えないものを信じたという原点に立ち戻って考える事が必要である。自分が目に見えない神の信じて、その神の意思従うという原点に立ち戻る時、クリスチャンは信仰によって絶望的な状況に立ち向かう事ができる。

「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」
‭‭ヘブル人への手紙‬ ‭11:1‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/heb.11.1.口語訳

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