バプテスマのヨハネの悔い改めについて

今日は。rieruです。

今日はいわゆるバプテスマのヨハネの説いた悔い改めについて書きたい。聖書にはヨハネという名前の人物が多く出てくるので、本稿におけるヨハネはキリストがこの世で公の働きをする前にキリストを紹介する役割を担ったヨハネであり、便宜上「バプテスマのヨハネ」と表記する。まずは、聖書に記された下記のバプテスマのヨハネの説教をご覧いだきたい。

‘さて、ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出てきた群衆にむかって言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、のがれられると、おまえたちにだれが教えたのか。 だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。 斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ」。 そこで群衆が彼に、「それでは、わたしたちは何をすればよいのですか」と尋ねた。 彼は答えて言った、「下着を二枚もっている者は、持たない者に分けてやりなさい。食物を持っている者も同様にしなさい」。 取税人もバプテスマを受けにきて、彼に言った、「先生、わたしたちは何をすればよいのですか」。 彼らに言った、「きまっているもの以上に取り立ててはいけない」。 兵卒たちもたずねて言った、「では、わたしたちは何をすればよいのですか」。彼は言った、「人をおどかしたり、だまし取ったりしてはいけない。自分の給与で満足していなさい」。 ‘ ルカによる福音書 3:7-14 https://my.bible.com/bible/1820/LUK.3.7-14

これを読むと、バプテスマのヨハネは「下着を二枚もっている者は、持たない者に分けてやりなさい。食物を持っている者も同様にしなさい」など「具体的な行いを改めよ」と教えている。そしてこの人物が「キリストについて紹介する者」であることを考えると、一見すると聖書は「キリストを信じる信仰を持つ前に行いを改めることが必要」と教えていると思えなくもない。

しかし、それは重要な事実を見落としている。バプテスマのヨハネが生きた時代にはキリストの十字架がまだない。この時代には「自分の罪のために死んだキリストを信じる信仰」という概念が成立しえない。この時代を支配していた概念は神の律法であり、律法は「行いを規制する法」であるから、バプテスマのヨハネはこの時代を支配していた「律法を守れ」と言ったに過ぎない。

バプテスマのヨハネのこの世における役割については下記の聖書の言葉が教えてくれる。

‘彼はエリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう」。 ‘ ルカによる福音書 1:17 https://my.bible.com/bible/1820/LUK.1.17

この言葉における「彼」とはバプテスマのヨハネである。この言葉の中で重要なことは 「逆らう者に義人の思いを持たせて」である。バプテスマのヨハネのなすべきことは「民の心に義人の思いをもたせること」だった。行いはその結果に過ぎない。最初の引用においてもバプテスマのヨハネは「 だから、悔改めにふさわしい実を結べ。」と言っている。悔い改めとは思いを「義人の思い」に変えることであり、その実が行いである。あくまでも、バプテスマのヨハネの役割は「義人の思い」を持たせてキリストを待ち望む民を整えることであって、行いはおまけである。

バプテスマのヨハネの生きた時代に「義人の思い」を持った民が最初に見上げるべきは神の律法であり、それに従えば、「行いが必要」という結論に至る。しかし、十字架が完成した現在、「義人の思い」を持ったものが最初に見上げるべきものがある。それが「律法には成し得なかったこと」を神がなしてくださった十字架である。律法より上位のものが現れたのだから、律法より先に十字架を見上げ、十字架によって成し遂げられた「信仰による救い」を自分のものとすることが必要というのが聖書の教えるところである。

‘律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。 ‘ ローマ人への手紙 8:3 https://my.bible.com/bible/1820/ROM.8.3

バプテスマのヨハネの言いたいことは、今日的に言えば「聖書の語る神に心を向けよ」ということである。当時のイスラエルの民が神から離れ堕落した生活を送っていたことに対して「それを改めて神の意思である律法を行え」と説いたのである。今私たちがそのことから学ぶべきことは、「神様に「心を向けよ」というメッセージであり、その結果は律法ではなく十字架に目を向けるべきことである。その事を無視してバプテスマのヨハネのメッセージを理解することはできない。

(一応、誤解のないように付け加えると、クリスチャンにとって律法の行いがどうでもよいというわけではなく、むしろ救われた後のクリスチャンは律法の行いについて実行すべき立場にある。なぜなら、救い主であるキリストの教えは「互いに愛し合うこと」であり、これは律法の人に対する教えの要約なのだから。)