クリスチャンが食事を共にする意味。

今晩は。rieruです。

今日は見過ごされがちだが、クリスチャンにとって大事な一つの事について語りたい。まずは下記の聖書の言葉をお読み頂きたい。

「そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、」
‭‭使徒行伝‬ ‭2:46‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/act.2.46.口語訳

今回、語りたい事は上記の言葉うち「食事を共に」という部分である。これは初代の教会におけるクリスチャンが何をしていたのかという事を記している。その中に「食事を共に」する事が書かれている。rieruはクリスチャン同士が食事を共にする事には大きな意味があると考えている。まずは食事を共にする事は親密さの象徴である。食事を共にする間柄というのは仕事でしかなくというケースを除けば概ね親密な間柄で行われる事だ。クリスチャン同士が時間の制約もないのにしょくしを共にする事すらないとしたら、その関係性はあまり良いものでない可能性がある。クリスチャンとして正常な関係を築けていればたまには食事を共にしたいと自然に思うものである。そういう意味でクリスチャン同士の関係性の一つの基準として「そのクリスチャンと食事を共にできているか、あるいは食事を共にしたいか」という点は大きな意味がある。

また、それ以上に大事な事は食事をしながら何を話すのかという点である。食事を共にすれば必然的にそこに会話が成立する。その中で信仰生活の実態について話し、喜びを分かち合い、互いの問題を共有してその解決方法を真剣に考える。クリスチャンにとって食事を共にするというのはそういう時間である。(クリスチャン同士でありながら、食事をしながら信仰生活の実際的な話がでないとか、話が噛み合わないとしたら、最低どちらかの信仰に問題がある。)その時間を持てる信仰者が身近にいるかいなかという点は信仰生活において極めて大きい。

クリスチャンとて弱い。一人ではできないけれど共に何かをできる信仰者がいるならば、その信仰生活は大きく変わる。もし仮に、これを読んでいてそういう存在がいないというクリスチャンがいるならば、それを求めて神に祈って欲しい。また、自分で食事を共にできる信仰者を探す行動を起こして欲しい。rieruは20年程前にそういう状況だった。その時は色んなつてをたどって色んなクリスチャンと話す機会を設けて信仰の友を探す旅をした、結果は今でも食事を共にしながら信仰の事を話せる友に巡り合った。それが今YouTubeで福音を伝える働きを共にしているヨシヤ氏である。今は彼だけでなくお互いの家族もそこに加わっている。彼との時間は今でも大事な時間である。

だから、食事を共にできる関係を築けずに悩んでいる人がいたら探して欲しい。あなたがそれを探すならば神はそれを与えてくれはずだから。

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