いわゆる苦しいチャンについて

おはようございます。rieruです。

今日はいわゆる「苦しいチャン」について。苦しいチャンとはクリスチャンなのにいつも苦しいと言って嘆きながら生活している人の事を指す。確かに、クリスチャン生活が苦しいだけだとするとそれは正常な状態ではない。一方で全く苦しくないクリスチャンというのも同じぐらい危ない。なぜなら、クリスチャンになるという事は他の人とは違う義の基準を持つという事だからである。それは決して生易しい事ではない。他の人が何の気なしにできてしまう事にもクリスチャンは罪の意識を持つ。それが苦しくないとしたら嘘になる。だから、クリスチャンが神の要求する義を行えない事に真剣に苦しむ事は普通の事であり、それがないとしたら正常なクリスチャン生活とは言えない。

しかし、苦しみだけしかないとしたらそれも大きな問題である。本当のクリスチャンは義の苦しみ異常の喜びも同時に自分のものとするからである。それは自分を命をかけて愛ししてくれたキリストとの交わりである。人は誰かに愛されているという実感によって喜びを得る。命をかけて自分の罪を償ってくれたキリストの愛を日々感じているならばそこに喜びがある。だから苦しいだけのクリスチャンというのは基本的にはあり得ない。救われてもなお罪を犯す自分に悩む以上にキリストの愛に喜びを覚える生活こそクリスチャンの王道である。

苦しいチャンと批判する側には本来あるべき罪の苦しみがない、あるいはそこから目を背けるという問題があるように思う。苦しいチャンの側には本来クリスチャンが持つべき喜びが欠如している。rieruにはそう思えてならない。

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