自己中心という罪。

今晩は。rieruです。

今日は、「自己中心」という人の罪の性質について考えたい。まずは、聖書の下記の言葉をお読みいただきたい。

‘それから人々は、イエスをカヤパのところから官邸につれて行った。時は夜明けであった。彼らは、けがれを受けないで過越の食事ができるように、官邸にはいらなかった。 ‘
ヨハネによる福音書 18:28
https://my.bible.com/bible/1820/JHN.18.28

これは当時のユダヤ人がキリストを葬り去るために当時の総督ピラトにキリストを告訴した時の出来事である。まず、前提としてユダヤ人たちはキリストの罪を立証することができなかった。総督ピラトもキリストに「罪はない」と宣言し、ユダヤ人たちが「妬み」からキリストを訴えていることを認識していた。つまり、この告訴自体が「自分たちにとって目障りなキリストを理由をつけて葬り去ろう」という邪な動機に基づくものであった。しかしながら、彼らは「けがれ受けない」ために裁判の現場に居合わせることを拒んだ。何故に彼らがこの事をした理由は下記の聖書の言葉に根拠がある。

‘彼らは正月の十四日の夕暮、シナイの荒野で過越の祭を行った。すなわち、イスラエルの人々は、すべて主がモーセに命じられたようにおこなった。 ところが人の死体に触れて身を汚したために、その日に過越の祭を行うことのできない人々があって、その日モーセとアロンの前にきて、 その人々は彼に言った、「わたしたちは人の死体に触れて身を汚しましたが、なぜその定めの時に、イスラエルの人々と共に、主に供え物をささげることができないのですか」。 ‘
民数記 9:5-7
https://my.bible.com/bible/1820/NUM.9.5-7

当時のユダヤ人にとって旧約の時代に神の命令として定められた「過越の祭」を行う事は非常に大事なことであった。そして上記のようにその祭りを行う条件として「けがれがない」ことが求められた。それ故に、ユダヤ人たちはその「けがれ」を受けないためにキリストの裁判に同席しなかったのである。正直に言えば、このけがれについては「死体にに触れて」という条件がついているので、人の裁判に関わることが本当に「けがれ」であったのか疑わしい。聖書によると当時のユダヤ人たちは神の命令を拡大解釈して「人の言い伝え」となったものを守っていたようなのでこれもその類なのかという疑問もある。

しかし、それ以上に問題なのは、彼らは「罪のないキリストを難癖をつけて(偽証をして)裁判にかける」というとんでもない罪を犯しているという事である。ハッキリ言ってその時点で「けがれまくっている」というのが実態である。そうであるにも関わらず「裁判に出席してけがれを受けるかどうか」を心配するというのはあまりに滑稽である。彼らは「キリストの存在は自分たちにとって不都合」という理由で自分たちのけがれた姿を認識することができなかった。

このユダヤ人の姿を見て「滑稽だ」と断言するのは簡単である。だが、そこに「自己中心」という人の罪の本質が現れているということはすべての人に関係がある。人は本質的に自己中心なので自分の姿を正しく見ることができない。この時のユダヤ人は「キリストを亡き者にしたい」ということが動機であったが、人は色々な理由で自分に対する判断が甘くなる。「それを認めると自分の過去の言動と矛盾する」「それを認めると自分の何かを失わないといけない。」「それを認めると自分の仲間や家族の責任を認めることになる。」理由はいろいろあるが、「自分の都合」ゆえになすべきことをしないなら「自己中心」という意味でこの時のユダヤ人と同じである。

聖書の中で自己中心は罪である。なぜなら「隣人を自分と同じように愛すること」が神の命令であり、自己中心はそれに反するからである。本当に隣人を愛しているならば、自分にだけ甘いというダブルスタンダードは許されない。この時のユダヤ人の姿から「自己中心」という人の罪の本質を学ぶ事は重要なことである。

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