死を前にした時のクリスチャンの思考。

今晩は。rieruです。

先日テレビドラマを観ていたら、病気の子供を抱えて治療費が嵩むのでお母さんもパートに出る。しかし、それがお母さんの余裕を失わせ治療中の子供との関係がギクシャクするというシーンがあった。子供が重い病気だと、親がなりふり構わず治療した結果本来あるべき子供と過ごすべき時間すら失うというのは本末転倒の部分はある。しかし、何とか子供に治って欲しいし、少しでも長生きしてほしいというのは親の心情だ。だからこうしたケースの判断は簡単ではない。

しかし、こういうケースで全てを投げ打って長生きすることが第一という考えが時に生き残ったもののその後に大きな爪痕を残す事もある。前にも書いたが、rieruが当事者で治る見込みがないのに、多額のお金を病気のために使って家族に迷惑をかけるぐらいなら治療を諦める。最低限の疼痛のコントロールだけして家族との時間を過ごして神の元に帰る日を待つ生活をしたい。

仮に、rieruの子どもが不治の病だったら、どうするか。モチロン出来る限りのケアはするが、ただ生き残るために全てを費やすかというそうはしない。出来るだけ子どもと過ごす時間を増やして、死と神と向き合うよう勧める。rieruが持っている死後の世界への希望について説明し、同じ希望を共有できるよう努める。死を目の前にして聖書の福音を語るのは難しい。本人が死の恐怖から逃れたいが故に安易に救いという保証を得たいと望むために、神と向き合うという信仰のファーストステップが疎かになりがちだからだ。

しかし、それでも丁寧に聖書の福音を伝える。それがクリスチャンのなす事とrieruは確信している。少なくとも死が迫っているという事が全ての事をかき消して不合理な選択のみを続けるという思考はクリスチャンとしては相応しくない。