目に見えるものに頼る人の弱さ。

今日は。rieruです。

今日は目に目えるものに流されやすい人の弱さについて。

「民はモーセが山を下ることのおそいのを見て、アロンのもとに集まって彼に言った、「さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセはどうなったのかわからないからです」。 アロンは彼らに言った、「あなたがたの妻、むすこ、娘らの金の耳輪をはずしてわたしに持ってきなさい」。 そこで民は皆その金の耳輪をはずしてアロンのもとに持ってきた。 アロンがこれを彼らの手から受け取り、工具で型を造り、鋳て子牛としたので、彼らは言った、「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」。」
‭‭出エジプト記‬ ‭32:1-4‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/exo.32.1-4.口語訳

これは、聖書の中に記されている昔のイスラエルの人達の中で起こった事である。イスラエル人々は神の不思議な助けによってエジプトの支配から脱出した。しかし、それから程なくして、その神を捨てて金の子牛を神の代わりにしてしまった。その理由は時の指導者であったモーセが神の言葉を聞くために山に登っている間、モーセとの交信が途絶えたという事だった。

彼等はモーセという人をとうして具体的な神との交信がある事が心の拠り所だった。彼等には「目に見える」という事が大事だった。人は見えない物を長い間心に留め置く事が苦手である。遠くの親戚よりも近くの友人と言われるが、目に見えない人との繋がりを保つ事は簡単ではない。その意味では目に目えるモーセという神との繋がりが消えた時に他の神を求めたイスラエルの人々の反応は普通の事かもしれない。

しかし、聖書の求めている信仰はそういうものではない。いかなる時にも目に見えない神に信頼し続ける信仰が聖書が求めている信仰である。クリスチャンはこの事を常に注意しなくてはならない。知らず知らずのうちに目に見える何かを神よりも重要視していないか常に点検する必要がある。お金、家族、クリスチャンの先輩、仕事、友達、趣旨。あらゆる者が簡単に神にとって代わる。それぐらい目に目えるものに心を奪われる人の弱さは深刻である。神以外の物を優先している時そのクリスチャンの信仰生活は死んでいる。クリスチャンは常にその状態を回避して信仰的に生きている状態を保つ必要がある。

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