神の言葉を語る。
今晩は。rieruです。
パウロは自らが福音を宣べ伝えた事について、下記のように語っている。
「これらのことを考えて、わたしたちがまた絶えず神に感謝しているのは、あなたがたがわたしたちの説いた神の言を聞いた時に、それを人間の言葉としてではなく、神の言として――事実そのとおりであるが――受けいれてくれたことである。そして、この神の言は、信じるあなたがたのうちに働いているのである。」
テサロニケ人への第一の手紙 2:13 口語訳
https://bible.com/bible/1820/1th.2.13.口語訳
ここで注目して欲しい事は、パウロが「わたしたちの説いた神の言」と言っている事である。パウロにとって福音は神の言葉であった。これはクリスチャンとしては当然の認識である。クリスチャンに取って福音は神から預かった言葉であり、自らが創り出したものではない。だから、福音を少しでも改ざんする事は許されない。聖書の語る福音をそのまま語る事は大前提である。
しかしながら、語っている内容か聖書に記された内容と同じであったとしても、それだけで神の言葉を語っている事にはならない。内容が福音であってもそこに力がないという事がある。私の経験からすると、それは語っている人の日常が神の支配から離れている時に起こる。日常の生活に置いて心が仕事やレジャーで支配されていて、「神のために生きる事」ができていない時に福音を語ろうとしてもそこには力がない。字面が福音であったとしても、それは福音ではない。
パウロは同じ書簡で下記のようにも語っている。
「なぜなら、わたしたちの福音があなたがたに伝えられたとき、それは言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信とによったからである。わたしたちが、あなたがたの間で、みんなのためにどんなことをしたか、あなたがたの知っているとおりである。」
テサロニケ人への第一の手紙 1:5 口語訳
https://bible.com/bible/1820/1th.1.5.口語訳
ここで言う力の源泉は日常における神との正常な交わりから来る。日々心を静かにして聖書と向き合い、祈る時間が必要である。その時心は神に向かう。そこにはクリスチャンが完全に生きて行くための栄養分が満ちている。それが心を支配している時、クリスチャンの語る福音は人の言葉ではなく神の言葉になる。いつも神の言葉を語れる状態を保ちたいものである。
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— rieru (@Kyr20102Kyr2010) October 18, 2021