神への奉仕は嫌々するものではない。
「だから今、それをやりとげなさい。あなたがたが心から願っているように、持っているところに応じて、それをやりとげなさい。 もし心から願ってそうするなら、持たないところによらず、持っているところによって、神に受けいれられるのである。」
コリント人への第二の手紙 8:11-12 口語訳
http://bible.com/1820/2co.8.11-12.口語訳
上記の最初の言葉はいわゆる献金ついて語られた言葉である。経済的に困っているクリスチャンのために物理的に助けるためにお金をあげるという事について使徒パウロは上記のように教えている。この言葉のポイントは「心から願って」という言葉をである。聖書は嫌々犠牲を払う事を良しとしない。心から願ってするのが本当の愛であり神に受け入れられる。
この原則はクリスチャンの神への奉仕において全てにおいて当てはまるとrieruは考えている。クリスチャンと神との関係のはじめは神の計り知れないめぐみにより、キリストの十字架によって救われるという所から始まる。クリスチャンはその神の恵みに感謝し、残された人生を喜んで神のために捧げる。これがクリスチャンの信仰生活の在り方だからだ。
神様がご自身の愛する御子であるキリストを十字架で死に至らしめるほどに愛して下さった。この事を思う時に自然と神への感謝が産まれ、そこから喜んで神のために何かをするということが実現する。それはクリスチャンが正常な信仰の状態を保っていれば当たり前の事だ。
しかし、現実は日々の色々営みに追われ、本来の姿から離れ時に義務的になり、時に嫌々神への奉仕に向かう事になる。それは本来あってはいけないのだがrieruの現実の姿である。そこから抜け出して喜んで神へ奉仕するという思いを保つためには聖書を読み、自分と神様との関係の始まりを確認する事が必要である。
信仰的に弱っている自覚したらとにかく聖書を読む。その中で神の恵みと愛を再度心の中心に据える事で喜んで神に奉仕する心が産まれる。それがrieruの信仰生活の現状である。少しでも長い時間正常な信仰状態を保ち、喜んで神様への奉仕をしたいと思っている。