神に対する責任感による心の一致
今晩はrieruです。
先日、rieruの子育てについて下記の記事を書いた。簡単に言うとrieruは苦手な子育て信仰のゆえにそれなりにこなしていると言う趣旨である。
この事について先日クリスチャンの友人から面白い話を聞いた。その友人は自分の子供ができる前から子供好きでrieruの子供も良く可愛がってくれる。しかし、彼の中で自分の子供が生まれてから他人の子供へのアプローチの仕方が変わったのだという。自分の子供が生まれるまではrieruの子供のように彼にとって他人の子供にも好かれたいという気持ちがあったらしい。だが、自分の子供が生まれてからは他人の子供にも好かれたいという気持ちがなくなったそうだ。
その理由は自分の子供だけで精一杯になったかららしい。モチロン彼は未だにrieruの子供にも目配りはできる。ひょっとしたらrieruよりも細かく配慮ができる。しかし、それはあくまでその場かぎりの対応であり、本質的にrieruの子供に好かれたいという気持ちを持つ余裕がないのだと言う。
それは一重に自分の子供を神から預かっているという責任感による。神様から預かった子供を大切に育てなくてはいけないという責任感から、自分の子供の事が優先で他人の子供に必要以上に関わる事が難しくなったのだ。実はこれはrieruが苦手な子育てを頑張る理由と同じである。神に対する責任感があるから子供の事をないがしろにはできない。だから苦手でも様々な工夫をして子供の事を育てるのである。
この共通点を見出してrieruは嬉しかった。そこにクリスチャンの心の一致を見たからだ。与えられた才能は個々に違う。しかし、神に対する責任感がそれぞれの行動を変える。そういう変化を遂げる者が近くにいる事でクリスチャンは励ましを受ける。クリスチャンに限らず同じ趣味を持ち、同じ感動を分かち合う時人は幸福を覚える。クリスチャンは信仰の世界でその経験をしているのである。彼との交流はそんな経験に満ちている。そんな信仰の友が与えられた事をrieruは喜ぶと共に神に感謝している。
ちなみに、その友人は20年以上の付き合いがあるが彼曰くrieruは「信仰無くして仲良くなることのない人」らしい。