クリスチャンが日常生活に置いて心に止めるべきこと。

今日は。rieruです。

今回はクリスチャンの日常生活における心構えについて。

「気をつけて、目をさましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたにはわからないからである。 それはちょうど、旅に立つ人が家を出るに当り、その僕たちに、それぞれ仕事を割り当てて責任をもたせ、門番には目をさましておれと、命じるようなものである。 だから、目をさましていなさい。いつ、家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、にわとりの鳴くころか、明け方か、わからないからである。 あるいは急に帰ってきて、あなたがたの眠っているところを見つけるかも知れない。 目をさましていなさい。わたしがあなたがたに言うこの言葉は、すべての人々に言うのである」。」
‭‭マルコによる福音書‬ ‭13:33-37‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/mrk.13.33-37.口語訳

この言葉は、キリストが当時の弟子に語った言葉である。文脈や聖書全体から考えるとこの言葉の直接の対象はユダヤ人である。(この辺りの解釈については今回の本題でないので割愛する)しかし、キリストはこの言葉を「すべての人々に言う」と語っている。直接の対象でないとしても、すべての人はこの言葉に耳を傾ける必要がある。

上記の言葉の中で「主人」とはキリストの事である。簡単に言えばこの場面でキリストの言いたい事は「主人であるキリストが突然帰って来た時に恥ずかしくない生活をしなさい」という事だ。人は皆他人にバレたら恥ずかしい事を抱えている。他人の目のない所で隠れて何かをしている時に、突然誰かがやって来てそれを見られてしまったら、クリスチャンでなくとも恥ずかしい気持ちで一杯になるはずだ。他人に見られても恥ずかしくない生活を送る事はクリスチャンならばとも大切な事である。

それがクリスチャンであれば尚更である。クリスチャンに取って神の前に恥ずべき事をしている時に、キリストが目の前に現れたらなんともう開きをして良いこ分からない。それでもクリスチャンはその恥ずべき事をしてしまうわけだが、それは本来あり得ないことだ。クリスチャンは上記のキリストの言葉を心に刻み、キリストの前に恥ずかしくない生活を送るべきである。

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