クリスチャンはラザロのように新しく生まれた事を示す存在であるべき。
今晩は。rieruです。
今日はクリスチャンが存在する意義について考えたい。先ずは聖書の下記の記事をお読み頂きたい。
「大ぜいのユダヤ人たちが、そこにイエスのおられるのを知って、押しよせてきた。それはイエスに会うためだけではなく、イエスが死人のなかから、よみがえらせたラザロを見るためでもあった。 そこで祭司長たちは、ラザロも殺そうと相談した。 それは、ラザロのことで、多くのユダヤ人が彼らを離れ去って、イエスを信じるに至ったからである。」
ヨハネによる福音書 12:9-11 口語訳
https://www.bible.com/1820/jhn.12.9-11.口語訳
ここで当時の祭司長達はラザロという人を亡き者にしようと企てた。理由はキリストがラザロを死人の中から生き返らせたからだ。(人が生き返るということが信じ難いという方は、とりあえずそういう事があったという前提でその先を読んで頂けたら幸いである。)キリストがラザロを生き返らせたという噂が有り、本人が生きているという事実は当時の人には重たい事実であった。それ故に時の宗教的指導者であった祭司長から人が離れていき、キリストの元に行ってしまった。祭司長はラザロの影響力が邪魔だったのでラザロを亡き者にしたかった。この事は、ラザロが生きているという事がキリストに敵対する者に対しても無視できない証拠能力があった事を示している。
クリスチャンもラザロのようでなければいけない。クリスチャンもキリストによって新しく生まれた者だ。ただし、この生まれ変わりは外見的なことではない。ラザロは肉体的に命を回復したが、クリスチャンの生まれ変わりは心の中での変化である。だから外見だけ生まれ変わった事が分からない。
では、どうやってそれが周りの人に分かるのか。それはクリスチャンの外部の人に対する振る舞いによる。クリスチャンの振る舞いがそうでない人達に比べて「決定的に異なる」という事をその振る舞いによって証明する必要がある。それができる時、クリスチャンはラザロが存在する事がキリストが本物である事を証明したように、キリストの証人となる事ができる。キリストの証人になるために必要なのは言葉だけではない。クリスチャンとしての振る舞いがも大きな力がある。
ではどうしたらそれができるのか。rieiuはキリストに対する愛を増す事にあると思っている。クリスチャンの中でキリストを慕う心が増せば増す程、その振る舞いも自ずとクリスチャンに相応しいものに変わっていくからだ。キリストを慕う心を養うのはキリストとの人格的な交流である。クリスチャンは聖書を通してキリストという存在に触れる事ができる。(これはクリスチャンでない人には理解できない感覚だと思うが、この感覚こそクリスチャンの生まれ変わりの証明である。)クリスチャンはキリストに触れる事でキリストへの愛を更に強く持つ事ができる。それがクリスチャンとしてふさわしい振る舞いに繋がるならそれは大きな力になる。
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クリスチャンはラザロのように新しく生まれた事を示す存在であるべき。 https://t.co/OYjfZD7pHq
— rieru (@Kyr20102Kyr2010) April 3, 2020