放蕩息子の帰還

おはようございます。rieruです。

今日はいわゆる放蕩息子の帰還について書きたい。この話については、レンブラントというオランダの有名な画家が絵画を描いていたりするので聖書を読まない方でも題名ぐらいは知っているという方もおられるだろう。しかし、その物語を通して聖書が人に何を伝えようとしているのかという点については日本ではあまり知られていない。今日は放蕩息子の帰還という物語を通して聖書が何を言わんとしているのかということを書きたいと思う。まずは、下記の聖書の該当箇所をお読みいただきたい。

‘また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。 ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。 それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。 何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。 そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。 彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。 そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。 立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。 もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。 そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。 むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。 しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。 また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。 このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。 ‘

ルカによる福音書 15:11-24

https://my.bible.com/bible/81/LUK.15.11-24

放蕩息子がやった事を簡単にまとめると、金持ちの息子が父の生前に遺産をよこせと要求し、それを貰った挙句湯水のように使ったという話である。もはや救いようの息子だが、息子が改心して戻ってくると父はそんなことはなかったの如く喜んで息子を迎えるのである。正直多くの人は「父親が寛容すぎる」という感想を持つところである。しかし、聖書はこの寛容すぎる父を通して「罪人の帰還を心から待ち望む神」の姿を教えている。

人は、みな神によって創られた存在である。その人が創り主なる神を神として崇めない。このことは人にとって大罪であり、父の遺産を生前に要求し、それを湯水のごとく使い果たすようなものである。父に大罪を犯す放蕩息子の姿は神を神として崇めない人の事である。そして、それはこの地上の全ての人に当てはまる。人は全員神の前に大罪を犯しているものなのである。しかし、その罪人が戻ってくるのを神は待ち望んでいる。放蕩息子は我に返った時父のもとに戻ることを決意した。彼は父に背を向けた状態から父の方向に向きを変えた。これを一言でいうと悔い改めである。神を神として崇めない人も、それを改めて神の方を向かなくてはいけない。自分本位の人生から「神が自分に何を望んでおられるか」という人生に転換しなくてはいけない。放蕩息子の話を通して聖書が人に伝えたいことの一つはこれである。

さて、放蕩息子は我に返って父の元に帰ろうと決意しただけでは問題は解決しない。放蕩息子は実際に父の元に帰る旅をしなくてはならなかった。旅をして実際に父の元に戻ると父は何も言う事なく放蕩息子を迎え入れてくれた。同じように人も父なる神の元に戻る旅をしなくては行けない。その旅とは細い道をとおり、命にいたる門であるキリストをくぐる旅である。聖書は命に至る門について下記のように記されている。

「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。」
‭‭マタイによる福音書‬ ‭7:13-14‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/mat.7.13-14.口語訳

また、キリストは下記のように語っている。

「わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。」
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭10:9‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/jhn.10.9.口語訳

マタイの福音書で語られている「細い道にある命に至る門」とはキリストの事である。この門を通るとは具体的には自分の罪の償いのために死んだキリストを自分の救い主であると信じる事である。先に述べたように神に造られたものであるのにその神を神として崇めない人は全て神の前に罪人であり、その解決なくして神に受け入れられることはない。罪の問題の解決のためにはキリストを信じる事が必要である。

しかし、放蕩息子の例えは「罪人が神の元へ還る事を神が喜ばれる」という事を強調してかかれているので、その過程の最後に必要な「罪の問題の解決」という点を詳しくは書いていない。だが、真の意味で罪人が神の元に帰るためには、放蕩息子のように自分の罪を自覚する事だけでは足りず、罪の問題の解決が必要である。そこは放蕩息子の例えの中では「そこで立って、父のところへ出かけた。」という一文にまとめられているが、これは「狭い道の先にあるキリストという命の門をくぐる事(キリストを救い主として信じる事)」が必要である。

そういう意味では放蕩息子の例えは、神の元に帰る事の重要性については良く教えているが、「どのようにして神に帰るか?」という事については別の聖書の記事を参照して考えなくてはいけない例えと言える。

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