自分のために死んでくれた方と共に生きる喜び

おはようございます。rieruです。

今日は、復活したキリストを見るクリスチャンの喜びについて語りたい。まずは下記の聖書の言葉をお読み頂きたい。

「その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。 そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。」
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭20:19-20‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/jhn.20.19-20.口語訳

この箇所にキリストの弟子が「主を見て喜ん」とある。この喜びは十字架によって一度死んだ後、復活した(生き返った)キリストを見た事によるものである。当時の弟子たちにとってキリストの復活が喜びであったように、クリスチャンにとってもキリストの復活は喜びである。

例えば、猛スピードで自分に向かってくる車から身を挺して救ってくれた人がいたとしよう。そしてその人が瀕死の重傷を負ったとしたら人は悲しむ。しかし、そこからその人が回復したら喜ぶ。逆にその人がそのまま死んでしまったら交通事故から救ってもらった事は感謝できるけれど、救ってくれた人が死んでしまった悲しみだけは残り続ける。

クリスチャンにとってキリストは命の恩人である。なぜなら十字架の死によって永遠の命を与えて下さった方だから。しかし、その方が死んでしまったままならば、その救いを手放しで喜ぶ事は難しい。なぜなら救い主が死んだという悲しみが残るからだ。しかし、現実にはクリスチャンの救い主は死んだだけでなく神によって死から救い出され出す方である。

ここにクリスチャンの喜びがある。自分の死を厭わずに自分の救いを成し遂げて下さった方が今生きている。そして、今その方が日々の生活を守っている。また、いつかその方は自分を迎えに来てくれて天国へ導いてくれる。クリスチャンの日常は自分のために死んでくれた程に愛してくれた人と共にある。そしてそれは永遠に変わらない。その事がクリスチャンの喜びである。

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