罪の償いにはいのちが必要。

今晩は。rieruです。

今日は、人の罪の償いのためにはいのちの犠牲が必要であるという事について。まずは下記の聖書の言葉をお読み頂きたい。

「あなたがたはイスラエルの全会衆に言いなさい、『この月の十日におのおの、その父の家ごとに小羊を取らなければならない。すなわち、一家族に小羊一頭を取らなければならない。 もし家族が少なくて一頭の小羊を食べきれないときは、家のすぐ隣の人と共に、人数に従って一頭を取り、おのおの食べるところに応じて、小羊を見計らわなければならない。 小羊は傷のないもので、一歳の雄でなければならない。羊またはやぎのうちから、これを取らなければならない。 そしてこの月の十四日まで、これを守って置き、イスラエルの会衆はみな、夕暮にこれをほふり、 その血を取り、小羊を食する家の入口の二つの柱と、かもいにそれを塗らなければならない。

その夜わたしはエジプトの国を巡って、エジプトの国におる人と獣との、すべてのういごを打ち、またエジプトのすべての神々に審判を行うであろう。わたしは主である。 その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。わたしがエジプトの国を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう。」
‭‭出エジプト記‬ ‭12:3-7, 12-13‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/exo.12.3-7,12-13.口語訳

これは、昔ユダヤ人がエジプトの国に滞在していた頃の記事である。神はエジプトの国の中で罪に対する裁きを行われた。その裁きの内容は各家庭の長子の命が失われるというものだった。それの神の裁きから救われるためには羊の血を門になる事であった。血を流す事は羊のいのちがなくなる事を意味する。これは神は罪の償いをするためにはいのちを要求される。聖書はこの原則を上記のエジプトでのエピソードを通して教えている。

この事は今を生きる私達にも関係がある。なぜなら私達の罪が許されるためにもいのちの犠牲が必要だからである。その犠牲を払ったのはキリストである。キリストが十字架で流した血は、エジプトで神の裁きから救われるために流された羊の血と同様に、いやそれ以上に私達を罪の裁きから救う力がある。その血はキリストが私達の救いのためにいのちという犠牲を払った事を意味する。

いのちが失われる事は重い。自分のためにいのちが失われたとしたらそれを蔑ろにはできない。聖書の語るキリストの死は私達にとって極めて重い意味を持っている。問題はその事を1人1人がどう受け止めるかということである。クリスチャンはその事の重さを実感して事実としてそのまま受け入れた人である。勿論、この世の中にはその事に意味を見出さない人もいる。日本では意味を見出さない人が大半である。しかし、rieruには生涯忘れることのできない、人生の土台である。そして、1人でも多くの人が本当のキリストの十字架の死の意味を理解して重く受け止めて欲しいと願っている。

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