聖書の中に「徐々に救われる」という概念はない。

おはようございます。rieruです。

今日は、聖書の語る救いは「徐々に救われるという事ではない。」という事テーマについて語りたい。聖書は救いについて下記のように語っている。

「イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。」
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭3:3‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/jhn.3.3.口語訳

ここでいう「神の国を見る」とは永遠のいのちを持つ事であり、救いの事である。ここで救いの条件について「新しく生まれる」という条件が記されている。新しく生まれたか否かはハッキリと境目がある概念であり、生まれたか生まれないか分からないという概念で語る事はできない。新しく生まれる事については更に下記のように記されている。

「肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。 あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。」
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭3:6-7‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/jhn.3.6-7.口語訳

ここでは新しく生まれるとは霊が新しく生まれる事であると記されている。これは霊という新しい人格が人のうちに新たに存在ようになる事を意味する。今までになかった人格が存在しているかという事は、「あるかないか」という極めて単純な基準で判断すべき事である。そして、その霊が生まれるための条件が下記のとおりキリストを信じる事である。

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭3:16‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/jhn.3.16.口語訳

つまり、救いについてはキリストを信じた事により霊という新しい人格の形成があった無かったかで判断すべきであり、そこに曖昧なことは何もない。

この救いの問題と混同されガチなのか「クリスチャンの成長」である。これは言い換えると新たに生まれた霊の成長である。その事について聖書は下記のように語っている。

「兄弟たちよ。わたしはあなたがたには、霊の人に対するように話すことができず、むしろ、肉に属する者、すなわち、キリストにある幼な子に話すように話した。 あなたがたに乳を飲ませて、堅い食物は与えなかった。食べる力が、まだあなたがたになかったからである。今になってもその力がない。 あなたがたはまだ、肉の人だからである。あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように歩いているためではないか。」
‭‭コリント人への第一の手紙‬ ‭3:1-3‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/1co.3.1-3.口語訳

ここで霊の成長を遂げた人の事を「霊の人」と言っている。これは霊が成長を遂げて霊がその人の心を支配している人の事である。しかし、霊が生まれたばかりの人はそうではい。霊が生まれたてなので、心を支配しているのは生まれながらの罪の性質である「肉」である。キリストを信じて新しく生まれた人の心で霊と肉が互いに闘っており、霊が成長していない段階では肉つまり罪の性質が心の中で勝つ事が多い。その状態の事をここでは「キリストにある幼な子」と表現している。

幼な子から霊の人に成長する過程はそれぞれクリスチャンで違いがある。早く成長する人もいればほとんど成長しない人もいる。成長スピードが遅い事もある。この成長の段階においては「徐々に」成長するという事があり得る。

しかし、これは霊の成長していない段階の事を「幼な子」と表現しているように、「新しく生まれていない」事を意味しない。我々は幼な子の事を「生まれる途中の段階」などと言うとはない。幼な子であろうとも確実に一つのいのちが存在している。この幼な子の状態と新しく生まれてはいないが聖書の語る福音に興味を持って聞いている状態を混同しているので、「徐々に救われる」という聖書にはない概念が発生するのである。

「徐々に」救われるという概念は聖書の中に根拠を見出すことはできない。

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