福音の力こそ聖書の正統性の根拠
今日は。rieruです。
昨日の記事で預言は聖書の正統性の根拠にすべきではないと書いたが、ではどのように聖書を正しいと理解できるのか。それは「福音の力」による。パウロは聖書の中で下記のように語っている。
「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。」
ローマ人への手紙 1:16 口語訳
https://www.bible.com/1820/rom.1.16.口語訳
聖書の語る福音は単なる言葉ではない。人の心を揺さぶる力がある。その言葉の裏に神の存在をハッキリと感じる事ができるし、その神が遣わされたキリストの存在も感じる事ができる。だから福音を信じて救われる。福音を信じる過程で神の存在を確信する事が不可欠であり、その神の言葉だから聖書の正統性を認める事ができる。その結果、人の目から見たらこじつけに見える聖書の預言についても理解できる。これが基本的な順番だ。
勿論、預言も神の言葉だから福音同様、力はある。例えば、イザヤ書53章のキリストの十字架の預言はあまりにも正確である。キリストの誕生の前にこれだけの事が預言されていた事実に神の力を感じる。それをきっかけとして神の存在を感じる事やその結果聖書が正しいと知ることは別に間違いではない。しかし、預言が成就した事だけを根拠に聖書の正統性や神の存在を説明しようとすると昨日の記事で解説したように理屈の上では矛盾が生じる。
預言の成就は人が神の存在を感じる一手段に過ぎない。キリストの十字架が完成した後の時代に置いては「福音に示された神の力を実感すること」こそ、神の存在を確信するための王道であり、その結果聖書の正統性を確信する事が基本的な順序である。だから福音の力こそ聖書の正統性の担保なのである。
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— rieru (@Kyr20102Kyr2010) July 2, 2020