クリスチャンがキリストの愛を知る。

今晩は。rieruです。

使徒パウロは下記のエペソに居るクリスチャンに当てた手紙の中で下記のように語っている。

「また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。」
‭‭エペソ人への手紙‬ ‭3:19‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/eph.3.19.口語訳

これはクリスチャンに宛てた手紙なので、上記の言葉はパウロがクリスチャンに対して「キリストの愛を知ることができるように」と願っているという意味になる。クリスチャンがキリストの愛を知る事は当然の事なので、頭でこの聖書の言葉を理解するのは難しい。しかし、rieruのクリスチャンとしての生活の実態からすると良くわかる。キリストを信じてクリスチャンになった後もキリストの愛を知るという事はドンドンは深みを増していく。クリスチャンとして生きる中で、キリストとの心における交流を通じてキリスト愛を更に深く知るようになる。その経験は何ものにも変えがたい喜びであり、信仰生活の原動力になる。だからこの所でパウロが言わんとしている事はすごく良く理解できる。

一方で、キリストを信じる過程でもキリストの愛はものすごく大きいものとして実感する。十字架の本質の一つはキリストの愛だから、そこを実感することなくクリスチャンになることはあり得ない。そういう面からすると、クリスチャンになってからキリストの愛を知るというのは矛盾している。

rieruはこの問題は聖霊による霊の新生によると理解している。キリストを信じて救われる時に人には聖霊のが宿る。また、霊において新しく生まれる。新しく生まれた人は自分の内に宿る聖霊の助けにより、新しくされた霊(神に仕える機能を持つ新しい人格)によって神に仕える。聖霊の助けと霊の生まれかわりは信じる前にはない。これらのものが信仰の結果生じるので、信じる前には見えなかったキリストの愛の深さを感じる事ができるようになる。それ故に、救われる前に十分にキリストの愛を知ったつもりだったのに、更にそれを深く知るという事象が起こる。

クリスチャンとして生きる上で、この事を常に経験したいし、それができていないとクリスチャンとしての活力が失われる。そうならないためにできるだけ多く聖書を読みキリストの愛に触れる事が大切である、

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