クリスチャンは信仰において簡単に妥協してはならない

おはようございます。rieruです。

今日は「クリスチャンは信仰において簡単に妥協してはならない」ということを考えたい。まずは少し長いが下記の聖書の記事をお読み戴きたい。

‘パウロは彼らにあいさつをした後、神が自分の働きをとおして、異邦人の間になさった事どもを一々説明した。 一同はこれを聞いて神をほめたたえ、そして彼に言った、「兄弟よ、ご承知のように、ユダヤ人の中で信者になった者が、数万にものぼっているが、みんな律法に熱心な人たちである。 ところが、彼らが伝え聞いているところによれば、あなたは異邦人の中にいるユダヤ人一同に対して、子供に割礼を施すな、またユダヤの慣例にしたがうなと言って、モーセにそむくことを教えている、ということである。 どうしたらよいか。あなたがここにきていることは、彼らもきっと聞き込むに違いない。 ついては、今わたしたちが言うとおりのことをしなさい。わたしたちの中に、誓願を立てている者が四人いる。 この人たちを連れて行って、彼らと共にきよめを行い、また彼らの頭をそる費用を引き受けてやりなさい。そうすれば、あなたについて、うわさされていることは、根も葉もないことで、あなたは律法を守って、正しい生活をしていることが、みんなにわかるであろう。 異邦人で信者になった人たちには、すでに手紙で、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、慎むようにとの決議が、わたしたちから知らせてある」。 そこでパウロは、その次の日に四人の者を連れて、彼らと共にきよめを受けてから宮にはいった。そしてきよめの期間が終って、ひとりびとりのために供え物をささげる時を報告しておいた。 七日の期間が終ろうとしていた時、アジヤからきたユダヤ人たちが、宮の内でパウロを見かけて、群衆全体を煽動しはじめ、パウロに手をかけて叫び立てた、 「イスラエルの人々よ、加勢にきてくれ。この人は、いたるところで民と律法とこの場所にそむくことを、みんなに教えている。その上、ギリシヤ人を宮の内に連れ込んで、この神聖な場所を汚したのだ」。 彼らは、前にエペソ人トロピモが、パウロと一緒に町を歩いていたのを見かけて、その人をパウロが宮の内に連れ込んだのだと思ったのである。 そこで、市全体が騒ぎ出し、民衆が駆け集まってきて、パウロを捕え、宮の外に引きずり出した。そして、すぐそのあとに宮の門が閉ざされた。 彼らがパウロを殺そうとしていた時に、エルサレム全体が混乱状態に陥っているとの情報が、守備隊の千卒長にとどいた。 そこで、彼はさっそく、兵卒や百卒長たちを率いて、その場に駆けつけた。人々は千卒長や兵卒たちを見て、パウロを打ちたたくのをやめた。 千卒長は近寄ってきてパウロを捕え、彼を二重の鎖で縛っておくように命じた上、パウロは何者か、また何をしたのか、と尋ねた。 ‘

使徒行伝 21:19-33

https://my.bible.com/bible/1820/ACT.21.19-33

本題に入る前に一つの事に留意頂きたい。この記事におけるパウロの行動の評価については聖書が直接評価していないので断定はできない。だから、この記事は多少なりともrieruの推測が入っており、クリスチャンの間でも見解が一致しないこともある。その前提でこの記事を読んでいただければと思う。

この場面で問題となっているのは「律法を守るべきか」ということである。律法とは旧約聖書の時代に神がユダヤ人に与えた法律の事で一番有名なのがいわゆる「モーセ(ゼ)の十戒である。この律法は下記の通り基本的に新しい契約によって廃棄されたものである。

‘神は、「新しい」と言われたことによって、初めの契約を古いとされたのである。年を経て古びたものは、やがて消えていく。’

ヘブル人への手紙 8:13

https://my.bible.com/bible/1820/HEB.8.13

律法は上記の聖書の言葉で言うところの「はじめの契約」の範疇であり、キリストの十字架による救いという新しい契約の時代には適用されない。これが、律法についての大原則である。ただし、新訳聖書の時代でも救われたクリスチャンが神の命令である律法の本質的な部分、例えば「殺してはならい」や「盗んではならない」という命令を守ることを神が喜ばれるという事は変わらない。クリスチャンが救いの条件としてではなく、「私を愛してくださる神の喜ばれることを実践したい」という思いで律法を守ることは大事な信仰生活の一部である。

ただし、それは旧約の律法をすべて忠実に守る事とは違う。あくまでも上記命令が新約聖書においてもクリスチャンが守るべきものとして明示されている「隣人を愛する」という命令の範疇にある(ローマ署15章2節、ガラテヤ人への手紙5章14節、ヤコブの手紙2章8節など)からである。そこから外れる律法の儀式的な部分については新訳時代に守る事を求められていない。

この場面でパウロは、その儀式的な部分を実行しようとした。(誓願を立てている者ときよめを行い髪をそる費用を出すこと。)それは「救いは律法によるのではない」というパウロの語る福音の内容にユダヤ人のクリスチャンたちが反感を覚えていたからだ。しかし、これは安易な妥協ではないだろうか。律法の儀式的な部分は既に意味を失っており、偶像を拝むわけではないのでそのぐらい妥協しても良いという考え方もあるが、それをパウロが行えば、その儀式に「意味がある」というメッセージを外に向けて送ってしまう。それは結果として「救いは信仰のみによる」という福音の根幹を揺るがす可能性がある。

だからこそ、これを実行する前に神からの介入があってパウロはそれを実行する前に逮捕されることになった。それがrieruの本記事に対する見解である。この見解が絶対正しいとは言わないが、少なくとも安易に信仰における行動を妥協しないようにするというのはクリスチャンの大原則である。rieruとしては本記事はその教訓として覚えておきたいと考える。

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